映画『グリーンブック』は、先日実施された昨年度のアカデミー賞受賞作品です。実話をもとにした黒人と白人の人種差別をめぐる物語を、コメディ色も交えながら見事に映像化しています。
日本の映画ファンにはウケが悪いとされている人種差別をテーマにしたヒューマン・ドラマではありますが、公開数日の初動では好調な推移を記録しているようです。
今回はそんな『グリーンブック』の個人的な感想や解説を書いていきます!なお、ネタバレには注意してください。
目次
映画『グリーンブック』を観て学んだこと・感じたこと
・黒人と白人、天才と用心棒という異色の友情も分かり合えれば成立する!
・人種差別を描くも作風が暗くなりすぎず、映画としても楽しめる!
・実話をもとにしているため、人種差別の歴史を学べる!
映画『グリーンブック』の基本情報
公開日 | 2019年3月1日 |
監督 | ピーター・ファレリー |
脚本 | ニック・バレロンガ ブライアン・ヘインズ・クリー ピーター・ファレリー |
出演者 | トニー・リップ・バレロンガ(ヴィゴ・モーテンセン) ドクター・ドナルド・シャーリー(マハーシャラ・アリ) ドロレス・バレロンガ(リンダ・カーデリーニ) |
映画『グリーンブック』のあらすじ・内容
まだ人種差別が公然のものであった1962年。ニューヨークのナイトクラブで用心棒を務めていたトニー・リップ・バレロンガは、クラブ改装中の職を探していました。
そこに現れたのが、天才黒人ピアニストのドクター・シャーリー。シャーリーはカーネギーホールに住んでいましたが、アメリカ南部へと旅立つ際に用心棒を含めたマネージャーを探していると仕事をもちかけます。
始めは断ったバレロンガでしたが家計はひっ迫した状況であり、仕事のためとやむなく条件をのむのでした。
黒人ピアニストと白人の用心棒。趣味も性格も正反対の二人は反発しあいますが、やがてお互いを深く知るようになっていき…。
映画『グリーンブック』のネタバレ感想
スタッフ・キャストともに日本では知る人ぞ知る人物たちで構成されている
今作はアカデミー賞作品賞を含む3部門を受賞しましたが、製作に携わった人々は決して日本での知名度が高いとは言えません。
まず、監督・脚本を務めたのはコメディを得意とするピーター・ファレリーでした。ファレリーは、これまで『ジムキャリー』などのコメディ映画が代表作であり、こうしたシリアスなテーマとはあまり結びつかない監督でもありました。加えて、彼の映画は大作を好む日本の映画ファンからの支持を受けているとはいえず、アカデミー賞の受賞がなければ今作の上映規模は今よりもはるかに縮小されたものだったでしょう。
さらに、これはキャストにも共通している問題でもありました。シャーリー役を務めたマハーシャラ・アリは、現代を代表する黒人俳優といえます。2016年には『ムーンライト』で助演男優賞を受賞するなど、その演技は高く評価されています。しかし、やはり日本では本国ほどの知名度はなく、映画ファンでなければ名前を聞いてもピンとこないかもしれません。これは主演のヴィゴ・モーテンセンにもいえます。
もっとも、知名度では劣るところがあるかもしれませんが、映画の出来は素晴らしいものがあります。コメディ畑出身のファレリーが描く世界観は、人種差別という重いテーマを扱いながらもどこかコメディ調を感じるところがあり、これがただ人種差別の罪を描き出すだけに終始しているドキュメンタリー映画とは一線を画すところです。
本作の内容で実話の部分と後日談
今作は実話をもとにしている物語であるというのは先ほども触れましたが、さらに補足しておくと今作主人公のバレロンガの実の息子ニック・バレロンガが脚本家としてクレジットされています。そのため、単なる伝記映画ではなく緻密な取材と関係者の協力を得て製作された映画であることがわかります。
そういった事実も影響し、今作で描かれている内容はそのほとんどが事実に基づいています。シャーリーは実在の黒人ピアニストであり、バレロンガは用心棒としてシャーリーと共に旅をしました。その旅を通じてバレロンガはシャーリーの姿を知るようになり、人種差別的な考えをもたないようになっていったというのも事実とされています。
また、用心棒でもあったバレロンガは後に俳優に転身しています。世界的なマフィア映画である「ゴッドファーザー」シリーズにも脇役で出演しているほか、『グッドフェローズ』など数々のマフィア映画で活躍しました。彼の経歴的にうってつけの役という事だったのでしょう。
そして、映画でも語られていたように二人は終生の友人として生涯を過ごしました。今作では、二人の活躍によって差別が完全に撤廃されるわけでもなく、劇的なシーンがあるわけでもありません。しかしながら、バレロンガという男の心が変わり、そのために生涯の友人となったことは紛れもない事実です。過度な脚色や大げさな演出がないぶんいくらか地味な仕上がりではありますが、それがゆえに現実に基づいた良質なヒューマン・ドラマ映画としての完成度を高めているように思えます。
「コメディ」を交えながら重いテーマを描くことの難しさと必要性
先ほどから何度も触れているように、今作の特徴は人種差別という重く暗いテーマを描きつつも、表向きは痛快なまでの明るさに満ち溢れている点です。
しかし、こういった重いテーマとコメディを両立するというのはものすごくシビアで繊細なバランス感覚を要求されるものなのです。その理由は簡単で、コメディというのは「笑い」を必要とするものですが、「笑い」を引き起こすためには「滑稽さ」を強調しなければならないためです。例えば、これは漫才などで一般的にみられる光景ですが、「なんでやねん」という関西のツッコミがあります。この短いフレーズの意味を咀嚼すると「なんでお前はそんなことをするんだ、馬鹿じゃないのか」というものになります。これは芸人同士でやるから成立するのであって、一般の人にやるだけでも喧嘩になることがあるかもしれません。
上記はあくまで例えですが、当然ながら今作でも「なんでやねん」という形で滑稽さを引き立てるわけにはいきません。「人種差別」という問題は世界でもトップクラスにシビアな問題であり、ましてや自分の意志ではなく他人がどう感じたかが最も大事な論点になってきます。そのため、たとえ差別の意思はなくとも差別と考える人がいればそれは差別なのです。
こうしたシビアな問題ではありますが、あくまで筆者が判断する限り今作には明らかに不謹慎な揶揄や皮肉といったものはないと感じました。そのため、差別に遭ってしまった経験がある方でも安心して観ていただけると思います。何より、人種差別問題の改善に全力を傾けているハリウッドで認められている映画ですから、その点に問題があればオスカーは取れていないでしょう。
また、それでいてコメディとしても良質な作品に仕上がっているので、監督の手腕は見事といったところでしょう。さらに、コメディで重いテーマを描くというのは、差別に無関心な層への訴えかけとして非常に効果的です。
そもそも、差別に関心がない層は「人種差別を扱った映画」という時点でその映画を敬遠しがちですが、コメディとして良質な映画であればそうした層も劇場に足を運ばせることができ、人種差別の問題に目を向けさせることができます。
繊細なテーマであるため製作は非常に難しいジャンルですが、ある意味真面目一辺倒のドキュメンタリー映画よりも差別の撤廃に好影響かもしれません。
基本に忠実で良質な作りの一方、真新しさには欠ける部分も
ここまで、今作が良質なヒューマン・ドラマである理由を解説してきました。実際に完成度の高い映画であることは間違いなく、オスカーの受賞も大方の予想通りといったところでした。
しかし、今作にあえて批判的な意見を向けるとするならば、「今作ならでは」という斬新さや真新しさはあまり感じられなかったという点には言及しなければなりません。異色の組み合わせとコメディタッチの物語は良質であった一方、過去にもそういった映画はいくつかあります。実際、私が今作をみて真っ先に思い浮かんだのは『最強のふたり』というフランス映画に近いという感想でした。
『最強のふたり』も今作と似通ったところがあり、手足の不自由な白人の大富豪を黒人の不良青年が支えることで友情をはぐくむというものです。もちろん細かい点を並べていけば異なる点はたくさんありますが、同時に類似点も多く見つけることができます。ただし、もちろん今作も『最強のふたり』もどちらも良質なヒューマン・ドラマであることは事実であり、同時にある程度ノンフィクションの要素を強めるとどうしても似通ってしまうという点は理解できます。
しかしながら、考えなければならないのは今作が賞レースの最高峰であるアカデミー賞作品賞を受賞したという点です。そもそも、近年のアカデミー賞は、作品賞を受賞するためには人種差別と闘う映画でなければならないという用な暗黙の了解があるように思えます。
実際、2017年は『ムーンライト』2018年は『シェイプ・オブ・ウォーター』と、今作含め3作連続で人種差別を根本的なテーマにした作品が受賞しています。もともとハリウッドにはリベラリズムの影響が非常に強く、かつての反省も込めてこうした映画が評価されるようになっています。
そうした事情を踏まえれば、今作は昨年の映画の中で人種差別を描いた映画という観点では一番優れた作品であると言えるかもしれませが、個人的にはオスカーを取るには今一つパンチが足りない作品であるという印象は否めません。また、後述しますが今作に対しては現地のアフリカ系アメリカ人からも根強い批判があり、人種差別映画としても賛否両論が巻き起こっています。
先ほどから何度も言っているように、人種差別という問題は非常にシビアなものなので、どういう描き方をしても多少の批判がなされることはやむを得ないといってもよいでしょう。しかし、今作の場合はいちアジア人の私から見ても少し気がかりな点があるので、そこに関してはこの後詳しく解説していきます。
今作がアフリカ系アメリカ人から批判される理由と人種差別の根深さ
さて、先ほどから触れているように今作には現地のアメリカ人からも賛否両論が存在します。その理由には複雑な背景があるのですが、一言でまとめてしまえば「白人による白人に都合のいい黒人像が形成されている」という点です。
そもそも、今作は白人監督による白人を主人公とした映画です。加えて、映画内でもトラブルに巻き込まれたシャーリーを、バレロンガが救うことで危機を乗り越えるというシーンが数多くあります。これは、何も心温まる友情の芽生えるシーンとしてだけではなく、「白人が弱い黒人を救ってやっている」という図式に見えないこともないのです。
「救う」という単語には、多かれ少なかれ明確な力関係が存在するという事実があります。例えば、私が道端で困っているご年配の方を「救った」としましょう。あるいは、助けたという単語で言い換えてもよいかもしれません。すると、そこには私「が」ご年配の方「を」というように、力関係に矢印が発生することが分かるかと思います。そして、この行為には私の「あのご年配の方を救ってあげなければ」という使命感も関与しているでしょう。これは一見責められるべき行為ではありません。
しかし、この図式はある意味で差別の第一歩なのです。もちろんこの行為単独であればそれほど問題視されるほどでもありませんが、私は「救う」という発想をしている時点で対象の相手をその分野では下にみていることになります。
この図式を改めて今作の行動にあてはめてみましょう。トラブルを解決してシャーリーを導くバレロンガは、ある種救世主的な描かれ方をしています。これを極端な言い方で表現すると「トラブル続きで困っている駄目な黒人を、白人の俺が『救って』やっているんだ」というようにも捉えることができるのです。こう表現すると、一連のシーンが差別的だと表現される理由が見えてきたのではないでしょうか。
これは今作だけでなく、人種差別という問題に深く根付いている極めて現代的な社会問題でもあります。確かに、昨今の先進国では堂々と人種差別が行なわれている光景というものはほぼ見かけなくなりました。しかしながら、人種差別への対抗意識が芽生える中でこうした新たな問題が発生しつつあるのです。これはかなり気を付けていなければ無意識のうちにやってしまいがちな差別でもあるので、我々も差別側に立っているつもりで常に心掛けなければなりません。
もっとも、今作は先ほども言ったように、「白人監督と白人主人公による人種差別を描いた映画」という時点でどうしても批判的な見方をされがちです。ましてや、それが白人と黒人の友情を描いた物語になっているのですから「昔はいろいろあったけど、今は仲良しだよね」と加害者側が言っているようなものなのです。これは本来被害者側が言うべき言葉であり、加害者側が言ってはいけない言葉でもあります。こうした側面もあって、本国でも賛否両論が巻き起こっているのです。
ただし、身もふたもないことを言ってしまうと、日本人である我々が普通に映画を観ているぶんにはほとんど気にならない点だと思います。日本という国は良くも悪くも人権意識が先進的な国ではないので、本国で論争になる点はあまり気にせずに視聴することができるかもしれません。マイノリティをめぐる人権意識で国際的な非難をされがちな日本ですが、今作を視聴するのにはむしろそれくらいに適度に鈍い意識のほうが楽しめるように感じます。実際に、筆者もそうした人種差別に根ざす背景は知っていたものの、あまり気にせず素直に楽しむことができました。
「グリーンブック」はそういった観点では、非常に賛否両論が分かれる映画になっていますが、先ほどから何度も言っているように映画としての作りは質が高く、ヒューマン・ドラマとしても一級品の出来にあることは間違いないので、重いテーマを扱っていながらもライトな気持ちで楽しむことができます。
そして、課題として挙げた人種差別問題は、映画を楽しんだのちに鑑賞者が自分なりの答えを出せばよいのではないかと思います。そういった意味では、単純に映画を楽しむだけでなく観終わった後もさまざまな点から考え、思い悩む価値のある映画だと思いますので、繰り返して違った角度から映画を見直してみるのも良いかもしれません。