映画『プーと大人になった僕(原題:Christopher Robin)』は、多くの人に愛されている児童文学『クマのプーさん』のその後の物語です。
タイトルの通り大人になったクリストファーが再びプーや森の仲間と出会い、笑いあり涙ありのストーリーを繰り広げます。
今回はそんな『プーと大人になった僕』の詳しい解説と感想を紹介していきます。ネタバレも含んでいるのでご注意ください。
目次
映画「プーと大人になった僕」を観て学んだこと・感じたこと
・現実にいるかのようなプーたちの動きに感動
・プーの台詞のひとつひとつに大切なことが詰まっている
・大人も子どもも、コアなファンも、みんな楽しめるコメディ
映画「プーと大人になった僕」の作品情報
公開日 | 2018年 |
監督 | マーク・フォースター |
脚本 | アレックス・ロス・ペリー トム・マッカーシー アリソン・シュローダー |
出演者 | クリストファー・ロビン(ユアン・マクレガー/堺雅人) イヴリン・ロビン(ヘイリー・アトウェル/園崎未恵) マデリン・ロビン(ブロンテ・カーマイケル/遠藤璃菜) プー(ジム・カミングス/かぬか光明) イーヨー(ブラッド・ギャレット/石塚勇) ピグレット(ニック・モハメッド/小形満) |
映画「プーと大人になった僕」のあらすじ・内容
イギリスにある100エーカーの森でプーや森の仲間と楽しく過ごしていたクリストファー。寄宿学校への入学が決まっていた彼にとって、プーたちとの別れの時間はすぐそこまで迫っていました。プーのことを決して忘れないと誓った彼は、100エーカーの森に別れを告げます。
時は流れ、クリストファーはロンドンにある旅行カバンの制作会社で多忙な毎日を送っていました。仕事中心の生活と、家族とのすれ違いに悩むクリストファーは、いつしかプーたちのことを忘れてしまっています。
ある日、プーが目を覚ますと、森の仲間の姿が見当たりません。
森に異変が起きたと感じたプー。クリストファーなら自分やみんなを見つけてくれるかもしれないと思ったプーは、彼が使っていた扉をくぐりロンドンにやってくるのでした。
映画「プーと大人になった僕」のネタバレ感想
現代にも通じるクリストファーの苦悩
『プーと大人になった僕』の最大の魅力は、何といっても主人公であるクリストファーが、プーや森の仲間との再会を経て、自分らしさを取り戻していく過程にあります。
100エーカーの森でプーや森の仲間から一目置かれていたクリストファー。物語の冒頭、クリストファーを囲む森の仲間たちの様子を見るだけで、彼がいかに尊敬され、慕われていたかというのがよくわかります。このシーン、実は原作である『クマのプーさん』のラストシーンでもあるのです。
クリストファーが一番好きなのは、「何もしないこと」でした。これはダラダラと生きるという意味ではなく、「何もしないでいることが時に最高の何かにつながる」という意味です。けれども、クリストファーはもうすぐ、何もしないでいることができなくなると言います。彼は寄宿学校に入り、教育を受け、やがて社会に出ていくことが決まっているので、何もしないまま生きていくことはできないのだと悟っているのです。
現実の世界でも、子どもはいつまでも子どものままではいられません。いつか学校へ行き、社会に出ていきます。自由奔放でいられるのは、ほんの僅かな時間だけ。ファンタジー文学のラストは、そのまま幼年期の終わりとしてどこかもの悲しく映ります。クリストファーはいつまでもプーのことを忘れないと約束して、100エーカーの森を去っていきました。
いつしか時は過ぎ、彼はロンドンで仕事に明け暮れるサラリーマンとなっていました。旅行カバン会社における彼の配属部門は売上げが低迷しており、クリストファーはその立て直しに必死です。生きるためには仕事をしなくてはならないという考えに支配された彼にとって、何もしないでいることなど、既に想像も付かなくなっています。
仕事を優先するあまり、クリストファーは愛する妻のイヴリンや娘のマデリンと少しずつすれ違っていくことに。お互いにとても愛し合っている家族だけに、3人の歯がゆさは見ていて少し辛いものがあります。
クリストファーは決して仕事そのものが好きというわけではありません。むしろ、仕事に追われ続けているという印象を受けます。事実、家族との会話において彼は、一生懸命に仕事をしておけば将来安心できると言うのです。まるで、今は我慢するための時間なのだといわんばかりの様子。結局、彼は仕事を優先し、家族旅行の約束を破ってしまうことになります。
その思考は、娘のマデリンにも少なからず影響を与えることに。マデリンもまた、彼と同じように寄宿学校への入学を控えていました。それが将来の彼女の幸せにつながるのだとクリストファーは信じて疑いません。
ここでクリストファーに対する、イヴリンの台詞が鋭く刺さります。
「(将来が)良くなっても悪くなっても、あなたがいればいい。(家族旅行に行くはずだった)この週末があなたの人生よ。人生はあなたの目の前で起きてるの」
今を生きることに必死で、仕事と家だけを往復することが日常になっている人にとっては、相当くるものがあるはずです。クリストファーも内心わかっているような素振りを見せるだけに、彼の苦悩に同情する人は多いのではないでしょうか。
『クマのプーさん』の世界であれだけ慕われていたクリストファーが、どこか現実にいそうな大人に納まってしまったことに対して、少なからずショックを受ける人は多いでしょう。しかし、彼はロンドンでプーと再会し、かつて大切にしていた「何もしないこと」を思い出すことによって、少しずつ昔の心を取り戻していきます。物語としては少しお約束めいた展開かもしれませんが、主人公がプーや森の仲間の協力を得て人間性を回復していく過程こそ、『プーと大人になった僕』の魅力のひとつでもあるのです。
プーや森の仲間たちの行動には笑いがいっぱい
『プーと大人になった僕』のもうひとつの魅力は、やはりプーをはじめとする100エーカーの森の住人たちが、大都会ロンドンで繰り広げる珍道中です。当然ながらプーたちの存在は、クリストファー以外の人間にとってはまるで夢やおとぎの国から出てきたかのような、不思議なものとして扱われます。一応、存在がおおっぴらにならないようにとクリストファーは苦心するのですが、プーたちには関係ありません。
ロンドンはプーたちにとって物珍しい世界であるとはいえ、あくまで100エーカーの森と大して変わらない舞台でもあるのです。そこで彼らが森にいる頃と同じように振る舞い、誰彼ともなく話しかけようとするので、当然ながら目撃した人間は目を丸くすることに。『パディントン』のように、人間社会における不思議な存在が引き起こすギャップは、大人も子どもも楽しめることでしょう。
ただ、パディントンがどこか人間くさくて紳士的な熊であるのに対して、プーたちの性格は児童文学として強く味付けされたものを感じるかもしれません。蜂蜜と風船が好きでおっちょこちょいなプー、気が弱くて心配性のピグレット、自信家でとにかく無邪気なティガー、そしてつねに悲観的な思考のイーヨー。
彼らは人間社会で生活するわけではないので、このようにどこか人間としては破綻しているような性格も許容されます。むしろ、こうした性格は物語としては最高のエッセンスとして機能することになります。実際、ある意味で純粋な彼らが人間たちに向ける台詞の数々は、人間社会を少しだけ別の角度から見たものに他ならず、ユーモアかつ、時にシニカルな笑いを引き起こすのです。
笑いだけではない?心に迫るプーたちのひと言
プーたちの行動は笑いを起こすものだけではありません。決して説教めいた台詞やシーンはないものの、彼らの台詞は時に我々の生き方にちょっとした疑問を投げかけます。
たとえばプーは、100エーカーの森へつながる入り口の前でクリストファーに帰るよう促されたとき、なかなか帰ろうとはしませんでした。プーは彼に、いなくなってしまった仲間たちを探すのを手伝って欲しいのです。そして、帰るのをためらいながら、「どこかへ行きたいとき、待ってると『どこか』が来てくれる」と言います。
不思議な言葉です。本作の主題でもある、「何もしない」ことが最高の何かにつながるという意味とよく似ているように感じます。どこかへ行きたいというのは、単なる移動先としてのどこかではないのでしょう。プーのこの台詞にしても、物語の流れから彼は単純に100エーカーの森へ戻りたいのではなく、仲間のいる森へ戻りたいのだということが読み取れます。
そして、その仲間にはもちろん、クリストファーも含まれているのではないでしょうか。劇中でのプーの表情にはほとんど変化が読み取れないものの、どこかもの悲しげな声や緩慢な動きから、彼の気持ちが感じ取れます。
もちろん、クリストファーには仕事があるので、本来ならば同行することができません。しかし、クリストファーがついてきてくれるかもしれないという幸運を祈って、プーはしばらくの間、何もせずにじっと入り口の前で待っているのです。かつてクリストファーがプーに言った、「何もしないこと」の体現であるといえるでしょう。
実際、クリストファーはプーの様子に何か感じ入るものがあったのか、彼を追いかけて森へ向かうことに。仕事だ何だといいながらも、クリストファーはやはりプーのことが大切なのだということがよくわかるシーンにもなっています。
また、森の仲間がクリストファーに対して、マデリンのことがどのくらい大切かをたずねるシーンでは、彼の複雑な悩みがわかります。マデリンはクリストファーの大切な一人娘なので、当然ながら彼女のことは旅行カバンよりも、仕事よりも大切です。しかし、それだけ大切ならどうして一緒にいないのかとたずねられて、クリストファーは返答に窮し、やむなく仕事があるからと答えてしまいます。
きっと、仕事よりも家族のほうが大切であることは、クリストファーにも最初からわかっていたはずです。しかし、クリストファーは苦労人なので、そのあたりがなかなかすぐに納得できないというジレンマを持っています。
実は、彼は寄宿学校に入学して間もなく父親を亡くしており、家の責任を一身に引き受けなければなりませんでした。その後、彼は妻イヴリンと結ばれたものの、マデリンが生まれる前に戦争へ出兵し、生死の狭間をさまようことになります。彼にとって、プーたちと別れたあとの人生は過酷なものであり、よりよく生きるためにはひたすら努力し続けるしかなかったのです。結果としてそれがクリストファーを仕事に駆り立て、さらには娘のマデリンにも同じような努力をさせていることにつながっています。
大切ならば、どうして一緒にいないのか。プーたちの素朴な疑問は、クリストファーに少しずつ変化をもたらします。もちろん、生きるために仕事をするのは大切なことです。けれども、仕事のために一番大切なものを見失ってしまっているのだとしたら。クリストファーはプーたちとの再開を経て、ようやくこれまでの苦労がもたらした呪縛から解放されたのだといえるのです。
実写ファンタジーのひとつの到達点
ドラゴンや巨人、あるいは無数の宇宙船を登場させ、あたかも映画の中の世界が現実のものであると錯覚させるのが、映画の醍醐味のひとつです。『プーと大人になった僕』もまた、現実の世界にプーたちが動き回る様子が描かれます。
もちろん、超大作のファンタジーやSFとは違い、彼らが動き回るのはイギリスのごく狭い範囲においてです。しかし、100エーカーの森は別として、日常の手の届く範囲で動いている彼らの様子は、錯覚というレベルを超えて現実そのものにしか見えなくなっていきます。
小さく、目の届く範囲のものほど、細部の粗が気になってしまうものです。けれども、本作のプーたちの動きは文字通り、本物のぬいぐるみがそのまま動いているような印象を受けます。実
際にはCGを駆使しているものの、どのあたりがCGなのかという疑問を差し挟むことはおそらくできないでしょう。現実にいればそのように動くであろう四肢の動作や、毛の一本一本の細かさは、真に迫っています。しかも、クリストファーが何度もプーに触れ、彼を抱きかかえて走る様子には、まったく違和感がありません。
また、原作のコアなファンであれば、プーたちの表情があまり変化しないという点が見逃せないはずです。もし本作がアニメーションであったならば、プーたちも表情を人間のようにころころと変えたことでしょう。しかし、現実の世界におけるプーたちの表情は、あまり豊かだとはいえません。その事実は、人間とプーたちの存在の違いをそれとなく示しているといえるのです。
もともと、『プーと大人になった僕』の原作である児童文学『クマのプーさん』は、作家のアレクサンダー・ミルンが、息子の持っていたテディベアのぬいぐるみを活躍させる物語として描き始めたのが始まりとされています。実際に、プーを含めた一部のキャラクターはぬいぐるみという設定です。そうした設定に忠実であるならば、アニメーションのようにプーたちが表情を豊かに変えることはない、ということも納得できるのではないでしょうか。
もちろん、声の調子や動作、そして小さな表情の変化は、プーたちの喜怒哀楽を如実に語ります。本作を見始めたら最後、ぬいぐるみが本当に動き、人間と会話していると思わずにはいられなくなることでしょう。そうしたあり得ないはずの、しかし手に届く範囲で起こる小さな奇跡は、ファンタジー映画のひとつの到達点といっても過言ではありません。
原作を深く読み込んでいると嬉しい小ネタが盛りだくさん
原作である『クマのプーさん』やディズニーによるアニメーションに深く触れてきたコアなファンにとっては、『プーと大人になった僕』はご褒美ともいえるような作品に仕上がっています。クリストファーのその後を描いた話となっているのはもちろんのこと、原作を読んでいると思わずクスッとしてしまうような台詞が、本作には数多くちりばめられています。
たとえば本作では、100エーカーの森に続く入り口をくぐる際に、クリストファーが体を詰まらせてしまうシーンがあります。幼少期の頃と比べて体が大きくなったのだから致し方ない、と思えるようなシーンです。しかし、原作ではこれとよく似た話として、プーが食べ過ぎて家から出られなくなるというエピソードがあります。入り口に体を詰まらせたのがプーとクリストファーで異なっているものの、明らかに原作へのオマージュが感じられる場面です。
また、取れてしまったイーヨーの尻尾をクリストファーがくっつけ直すシーンも、原作好きな人には見逃せない場面でした。イーヨーはちょっと陰気で物事を悲観的に捉える性格をしているロバのぬいぐるみであり、尻尾が外れやすいという特徴を持っています。原作でのイーヨーはよく尻尾を無くしてしまうと言っており、見かねたクリストファーが彼の尻尾を釘で打ち付けてくっつけるというエピソードもあります。
『プーと大人になった僕』でもまた、いつの間にか取れてしまった尻尾を、クリストファーが優しくくっつけてあげるシーンがあります。イーヨーの特徴とふたりの関係が再び表現された場面でした。
もしかすると、いまだに誰も気がついていないような小ネタやオマージュがあるかもしれません。コアな『クマのプーさん』のファンにとっては、本作からこうした小ネタを見つけるのも一つの楽しみ方です。また、原作を読み込んだことによる知識を生かして、ひとつひとつのシーンに対する深い考察ができるのも、コアなファンだけの喜びといえます。
監督マーク・フォースターはクリストファーのモデルになった人物のことを知っていた?
本作の監督であるマーク・フォースターの経歴を見ると、『プーと大人になった僕』のような作品を手がけたというのは少し意外に感じられるかもしれません。
マーク・フォースターの代表作といえば、世界的なゾンビパニックを描いた『ワールド・ウォーZ』や、人種差別の問題を織り込んだ贖罪の物語である『チョコレート』、自分の行動が声となって聞こえる男の様子を描いた『主人公は僕だった』などが挙げられます。ピーターパンをオマージュとした『ネバーランド』のような作品もありますが、それすらもファンタジーではなく、ヒューマンドラマに主眼が置かれています。
しかし、ファンタジーや児童文学に長けた人だけが、同じジャンルですぐれた作品を生み出せるわけではありません。むしろ、『クマのプーさん』のように、児童文学でありながら、人生に対する深い台詞をちりばめられた作品を原作とするのであれば、なおさらだといえるでしょう。
実際、多くのヒューマンドラマを手がけてきたマーク・フォースター。彼の人間に対するひどくまっすぐな視線は、『プーと大人になった僕』でも如実に表れています。
結果として仕事と家族の両方を大切にしていく様子も、素晴らしいハッピーエンドと取るか、フィクション特有のご都合主義と取るかは人によるでしょう。しかし、ここにクリストファーのモチーフとなった人物のことを考えると、話は少し異なってきます。
『クマのプーさん』に登場するクリストファーのモデルは、作家アレクサンダー・ミルンの、同じ名前の息子です。実際のクリストファーも寄宿学校へ入学し、第2次世界大戦時には兵役に就いています。そして、重い障害を持った娘がいたそうです。こうしてみると、『プーと大人になった僕』のクリストファーと現実のクリストファーには、いくつかの共通点があります。
しかし、実際のクリストファーは、『クマのプーさん』が世界中で人気を博していくにつれて、だんだんその事実に苛立ちを募らせていったという逸話があります。また、彼はアレクサンダーと同様に作家の道を志しながらも、才能の無さから挫折したといわれています。一見、ほのぼのとした児童文学である『クマのプーさん』は、現実のクリストファーの姿を通して見たときに、暗い影を見せるのです。
現実のクリストファーに関する逸話が事実であれば、彼が生きてこの映画を見たらどんな感想を抱いたのでしょうか。父親との和解、もしくは憎悪の深まり。娘の元気な姿を描いてくれたことに対する感謝、もしくは現実との落差による悲しみなど、どれもあり得るように思います。
現実と虚構のクリストファーにおける共通点から、マーク・フォースターが現実のクリストファーにまつわる逸話を知らないはずがありません。もし、フィクションの力で彼の悲劇の人生を救いたかったというのであれば、あまりに陳腐です。現実のクリストファーの悲劇性を利用して、それを救うというシナリオは、それこそ誰にでも思いつくような話だからです。
個人的に思うのは、マーク・フォースターには複雑な思いがあったのではないでしょうか。監督にもまた、映画公開時には9歳になる娘がいました。実際、『プーと大人になった僕』の公開に際して、彼はインタビューで、「娘や彼女の友達が楽しめるように心がけている。同時に僕や母も楽しめることも大事」と語っています。
クリストファーの逸話を知っていた監督は、単純なハッピーエンドとすることに葛藤したのかもしれません。けれども、監督はその葛藤を押さえ込んででも、本作をハッピーエンドに仕上げました。世界中に愛された『クマのプーさん』の続編として、長い時間を越えてプーとクリストファーが再会した物語においては、ハッピーエンド以外の結末など誰も臨まないからです。
事実、現実のクリストファーとの関係を考えると考察は止まりません。しかし、子どもも楽しめるファンタジー作品として見たときに、やはりその考察はどこか行き止まりを見せるように感じられます。
むしろ、そうしたバッグボーンを踏まえながらも、原作の特徴や小ネタを丁寧に拾い集め、現実の世界にプーと仲間たちを誕生させたマーク・フォースターの手腕は「素晴らしい」のひと言で、『プーと大人になった僕』は、まさに彼の新たな代表作として挙げることができます。