11月16日、Netflixである映画の配信が開始され大きな話題となりました。その映画は『バスターのバラード』。ハリウッドを代表する名監督のコーエン兄弟が手掛けた西部劇です。
コーエン兄弟の過去作のモチーフも登場するので、彼らの作品のファンなら必見の作品です!また、6つの短編から構成されているので、彼らの作品を観たことがない人にも入門編としてお勧めできる作品になっています。
今回は『バスターのバラード』の感想と解説をコーエン兄弟の過去作品と比較しながら紹介します。ネタバレを含みますので、まだ今作を未鑑賞の方はご注意ください。
目次
映画「バスターのバラード」を観て学んだこと・感じたこと
・アメリカの西部開拓期の人々のたくましさ
・一つの時代が終わる間際の侘しさと美しさ
・「死」にまつわる人生の不条理さ
映画「バスターのバラード」の作品情報
公開日 | 2018年11月16日 |
監督 | コーエン兄弟 |
脚本 | コーエン兄弟 |
出演者 | ティム・ブレイク・ネルソン ジェームズ・フランコ リーアム・ニーソン トム・ウェイツ ゾーイ・カザン タイン・デイリー |
映画「バスターのバラード」のあらすじ・内容

映画『バスターのバラード』は、19世紀後半のアメリカの開拓時代を舞台にした6つの短編の物語から成り立つ西部劇です。
映画の冒頭に今作のタイトルが記された本が登場し、この本をめくっていきながら6つの物語が紹介されていきます。
それぞれの物語のタイトルは、真っ白な服を着た陽気なカウボーイが主人公の『バスターのバラード』、ある銀行強盗の顛末を描く『アルゴドネス付近』、興行師と四肢の無い男の旅興行を描いた『食事券』、大自然の中で金塊を探す山師の物語の『金の谷』、オレゴンへ向かうキャラバンの旅を描いた『早とちりの娘』、馬車に居合わせた5人が織りなす会話劇の『遺骸』という6つの物語で今作は構成されています。
映画「バスターのバラード」のネタバレ感想・解説
Netflixにコーエン兄弟が登場!

まず初めに言及しておきたいことは、現代のハリウッドを代表する映画監督のコーエン兄弟の作品が、ネット配信のNetflixで独占配信されただけでも衝撃的な出来事だということです。
Netflixが独占配信して話題となった世界的名監督の作品としては、ポン・ジュノ監督の『オクジャ』や、デヴィッド・フィンチャーが製作総指揮を務めたドラマ『ハウス・オブ・カード 野望の階段』『マインド・ハンター』、最近ではアルフォンソ・キュアロン監督作でヴェネチア国際映画祭金獅子賞を受賞した『ROMA/ローマ』などが挙げられますが、そんな中でもコーエン兄弟がNetflixに登場したことは大きな話題となりました。
兄がジョエル、弟がイーサンのコーエン兄弟は『ファーゴ』『オー・ブラザー!』『ノーカントリー』などの作品が有名なハリウッドのヒットメーカーですが、『バートン・フィンク』がカンヌ国際映画祭にて史上初の主要3部門を制覇するなど、映画批評家からも高い評価を得ている監督です。
国際的な映画祭の常連であるコーエン兄弟の作品を独占配信したことで、Netflixの格はまた一つ上がったのではないでしょうか。
『バスターのバラード』のテーマとは?

そんなコーエン兄弟ですが、近年の作品はアメリカの文化的な歴史にまつわる映画を多く製作しています。『トゥルー・グリット』では西部劇の終わりの時代を描き、『インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌』では60年代のフォーク・シーン、『ヘイル、シーザー!』では50年代のハリウッドの赤狩りの歴史を描いています。
そして今作は時代的には『トゥルー・グリット』と同時代である19世紀末を舞台に、西部開拓期を生きた人々の6つの物語を描いていきます。
今作の6つの物語に一貫したテーマが、映画冒頭に出てくる本に示されています。本の表紙に描かれているのは枯れ木と動物の頭蓋骨。絵画などでは「メメント・モリ」という死のモチーフとして使われる頭蓋骨ですが、ここではアメリカの開拓の歴史の中に生き、そして歴史と共に死んでいった人々を象徴しています。
そして本のページをめくると出てくるのは、墓場の近くで夕日を浴びているカウボーイの挿絵が出てきます。これは今作が、カウボーイに代表される西部劇の時代が死んでいく時代の物語を描いていることを表しています。表紙と挿絵の両方に示されている「死」というイメージが印象的ですが、これが今作の重要なキーワードであると言えるでしょう。以上の冒頭のシーンから、今作は「アメリカ開拓期を生きた人々の死にまつわる物語」がテーマになっていると考えられます。
また、6つの物語の3番目『食事券』で、四肢の無い青年の朗読の中に『オジマンディアス』という詩と、旧約聖書の『カインとアベル』の箇所が出てきます。
『オジマンディアス』の詩は盛者必衰を表しており、『カインとアベル』は人類最初の殺人と言われていますが、これらからも上記のようなテーマが示されています。
昔ながらのカウボーイに注目!(『バスターのバラード』)

ここからは6つの物語を一つずつ解説していきます。まずは、映画と同じタイトルが付けられた『バスターのバラード』です。
全身を真っ白な服で装い、白馬に乗ってギターを弾きながら陽気に歌うカウボーイ、バスター・スクラッグス。彼はバーにいた無法者たちを一瞬にして皆殺しにしたり、丸腰で銃を向けられた状態でも機転を利かせて返り討ちにしてしまったりと、無敵のカウボーイとして登場します。
このバスター・スクラッグスというキャラクターですが、コーエン兄弟作品における2種類のキャラクターが合わさったものと解釈することが出来ます。
まず、カウボーイという設定の時点で『ビッグ・リボウスキ』のボーリング場のシーンで、主人公デュードと会話を交わす謎のカウボーイが思い浮かびます。この謎のカウボーイは新旧のアメリカのヒーロー像の対比として登場し、デュードと会話した後、観客に向かって語りかけてくるという、超越的な存在として描いているのですが、今作のバスター・スクラッグスも同様にこちらに語り掛けてきます。つまり、バスター・スクラッグスも同様に超越的な力を持った昔ながらのヒーローというキャラクターなのです。
また、もう一つのキャラクターとしては、『ノーカントリー』に登場するアントン・シガーを連想させます。アントン・シガーは麻薬取引の金を奪った男を追跡する殺し屋で、出くわす人を片っ端から殺害していく最強の殺人マシンでしたが、バスター・スクラッグスも彼に歯向かう者を次々と簡単に射殺してきます。酒場で出くわした男を返り討ちにした後、バスター・スクラッグスは酒場の人たちと陽気に歌を歌いますが、殺された男の弟が死体のそばで泣き悲しんでいる描写も入ります。
ある側面からはヒーローとして描き、もう片方の側面からは最強最悪の殺し屋として描かれるバスター・スクラッグスというキャラクターこそ、崇高かつ血なまぐさい「カウボーイ」という存在の象徴と言えるでしょう。
そして、そんな最強だと思われていたバスター・スクラッグスも、全身を黒で装った若いカウボーイとの決闘で、油断したのかあっさりと殺されてしまいます。若いカウボーイに時代の移り変わりを諭されながら、バスター・スクラッグスの魂が天に昇っていくラストはまさに盛者必衰を表しています。
コーエン兄弟が描く「この世の不条理」とは?(『アルゴドネス付近』)

2つ目の物語の『アルゴドネス付近』で描かれるのは、銀行強盗を行った若いカウボーイが最終的に絞首刑になるまでの物語です。強盗や誘拐、恐喝などの犯罪をコーエン兄弟はこれまで多くの作品で取り上げてきました。しかし彼らが描く犯罪は、スパイ映画のようにカッコよく完璧に遂行されるわけではなく、むしろ無計画のためにグダグダで、結果的には犯罪の当事者の想定とは違う結果に終わります。
『ファーゴ』は狂言誘拐の話でしたが結果的には何人もの死者が出る大惨事になってしまい、『バーバー』では出来心で行った恐喝により主人公と周囲の人たちの人生は破滅へと向かいます。『バーン・アフター・リーディング』も一般人が元CIAの男を恐喝したために惨劇が起こるという内容でした。
これまでのコーエン兄弟が描いてきた犯罪と同様に、『アルゴドネス付近』で起こる強盗も特に計画があるわけでもなく、逆に銃を用意していた銀行員に足元の壁越しに銃撃されます。ちなみに、この「壁越しに銃撃を受ける」という演出も、『ノーカントリー』や『トゥルー・グリット』など、これまでのコーエン兄弟の映画に頻出してきたショック演出です。
銀行員に逆襲されて気絶させられたカウボーイは目を覚ますと、木から吊るされた縄を首にかけられた状態で馬に乗せられており、絞首刑になる寸前の状態でした。保安官たちがカウボーイの最期を見届けようとしたその瞬間に、先住民のコマンチ族からの急襲を受け、保安官たちは全員殺されてしまいます。なぜか1人だけ生き残ったカウボーイは近くを通りかかった家畜商人に助けてもらいますが、この家畜商人は実は家畜泥棒だったため、カウボーイは泥棒の罪をなすりつけられて再び保安官に捕まってしまい、最終的には家畜泥棒の罪で絞首刑になってしまいます。
カウボーイは、実際に犯した銀行強盗の罪では絞首刑にはならずに、実際には犯していない家畜泥棒の罪で絞首刑になってしまうという、まさにコーエン兄弟らしい「この世の不条理」がこの『アルゴドネス付近』には込められています。
特に、『バーバー』における不条理と似ているかもしれません。『バーバー』では主人公が犯した殺人の罪が主人公の妻に着せられてしまい、逆に犯していない殺人の罪によって主人公は死刑にされてしまいます。『バーバー』では不条理の象徴としてUFOが登場するというまさかの展開がありましたが、『アルゴドネス付近』での不条理の象徴はコマンチ族ということになるのではないでしょうか。
絞首刑を目前にして、カウボーイは絞首刑を観に来ていた一人の美しい女性と目が合い、お互いに微笑み合います。自身の死の目前にしても、美しい女性のことが気になってしまうという、最後まで「この世の不条理」を強く感じさせる演出でこの物語は終わりを迎えます。筆者個人としては、このラストのカウボーイの内面はアルベール・カミュの『異邦人』における主人公ムルソーの不条理さにも似ていると感じました。
『食事券』と『バートン・フィンク』との類似点は?

3つ目の物語は、年老いた興行師と四肢の無い青年の旅興行を描いた『食事券』です。興行師は様々な町を周り興行の準備をし、青年は詩や聖書やシェイクスピアの暗唱を披露することで観客からおひねりをもらい生計を立てています。
青年の見た目のインパクトと鬼気迫る表情での暗唱に感動する観客も多かったのですが、人気の少ない町に向かうとおひねりをもらうことが難しくなっていき、興行師はある決断をすることになります…。
青年が暗唱する言葉の中には前述した『オジマンディアス』と『カインとアベル』の他に、リンカーン大統領の『ゲティスバーグ演説』もあることから、舞台は1863年以降であることが推測できます。
コーエン兄弟の初期の名作『バートン・フィンク』でも、美しい脚本を書こうと意気込んでいる脚本家が、映画スタジオの社長から金になる脚本を書くように命じられて苦悩する様子が描かれているほか、『インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌』でも、主人公ルーウィン・デイヴィスが自身の人生を賭けてスタジオに曲を売り込みに行くが、「金のにおいがしない」と契約を拒否されてしまいます。美しい言葉、歌、さらには人間性までもが金の前では無力になってしまうというテーマも、コーエン兄弟はこれまで描いており、『食事券』もそれらと同様のテーマに基づいた物語だと言えるでしょう。
興行師は興行が苦しくなる前は、美しい人間性の象徴であった青年のことを第一に思い、食事や身の回りの世話を欠かさずに行ってきましたが、興行が苦しくなると酒に溺れて売春宿に行ってしまい、生活はますます苦しくなってしまいます。そして、ある町で別の興行師が披露していた「計算ができる鶏」の方が金になると考えてその鶏を購入し、鶏の世話のせいで青年の世話は何も行わなくなります。興行師が酒と女に金を使ってしまい美しい心を失っていく様子は、『バートン・フィンク』に登場する脚本家W・P・メイヒューのようでもあります。
『食事券』のラストは興行師が青年を真冬の川に投げ捨てて殺害するという衝撃的なラストで終わるのですが、美しい人間性の象徴であった青年を殺すということはつまり、興行師は自分自身の人間性も生活のために殺してしまったことを表しています。青年が暗唱していた『カインとアベル』はこのラストの展開の予兆にもなっています。
『ファーゴ』からのセルフオマージュ?(『金の谷』)

アメリカの大物歌手であるトム・ウェイツが主人公の年老いた山師を演じている『金の谷』が4つ目の物語です。山師は人気のない山の奥地の小川沿いに金塊がありそうだと推測し、その場所に野宿しながらひたすら穴を掘り続けます。
お金がほしいという欲望に突き動かされて途方もないことをしてしまう人物たちは、コーエン兄弟は『アルゴドネス付近』のように強盗をしたり、『ファーゴ』や『ビッグ・リボウスキ』のように狂言誘拐を行ったりと様々な形で描いてきましたが、他人から金を奪うのではなく自然から恵んでもらおうとする人物を描いたのはこれが初めてかもしれません。
この『金の谷』の最も美しい場面は山師がこの土地に入ってくる前の、人間の手が入っていない、あるがままの自然の姿が夜明けと共に現れてくる場面です。その広大な自然の中で穴を掘り続けている山師の姿はとてもちっぽけで時として滑稽にも見えます。広大な自然の中で人間がお金目当てに四苦八苦している姿は『ファーゴ』と通じているかもしれません。
『ファーゴ』は雪が積もったミネアポリスを舞台にしたクライムコメディですが、広大な大雪原の下に奪った金を隠し、目印にスコップを立てておくシーンがあります。広大な自然の中に欲望に動かされた人間が立てたスコップが一つ存在しているという構図は、どこかグロテスクな印象を受けますが、この「広大な大雪原の中に一つだけ立っているスコップ」のセルフオマージュが『金の谷』に入っています。
山師が金を掘り終えて立ち去った後、小川沿いは再び元の自然の状態に戻るのですが、山師が掘った穴に目印の旗が立ったまま残されています。ここでもやはり人間の欲望の痕跡が、大自然の中でグロテスクに取り残されています。
西部劇の最後の栄光を描いた『早とちりの娘』

5つ目の物語『早とちりの娘』は、アリスが兄と共にオレゴンにキャラバンと共に向かう道中、キャラバンの護衛についているカウボーイのビリーと惹かれ合っていく物語です。
兄のギルバートが旅の最中にコレラを患い死んでしまい、アリスは旅の費用の工面に困っていたが、ビリーはアリスの借金を引き受ける代わりに彼女に結婚を申し込み、彼女はそれを受け入れます。ビリーがアリスと結婚をしたいと思った理由の一つには、カウボーイ時代の終わりというものを薄々感じており、結婚をして農家として生活した方が安定している、というビリーの考えもありました。
1つ目の物語の『バスターのバラード』同様、カウボーイ時代の終わりを感じさせる内容になっていますが、この物語は輝かしいカウボーイの最期の栄光の瞬間が表れている物語でもあります。
ビリーは12年間、ベテランのカウボーイのアーサーとタッグを組んでおり、この度にも二人で護衛についています。このアーサーこそ1つ目の物語の主人公バスター・スクラッグスと同様に昔ながらのカウボーイの象徴となっています。アーサーは近年腕も落ちてきているが、カウボーイとしての能力は未だに健在だとビリーは言いますが、それを聞いたアリスには実際のアーサーの戦闘での雄姿を知るすべはありません。
コーエン兄弟の『トゥルー・グリット』も同様の物語になっています。主人公の少女マティは自分の父親の敵討ちのために雇ったルースター・コグバーン保安官から彼の過去の輝かしい戦歴を聞かされるが、そんな戦闘が本当に行われたものなのか知るすべがないことと、普段の彼のだらしなさから、彼の話は嘘だと思い込んでいました。しかし映画のラストの決闘シーンで、コグバーンは言っていた通りの勇敢な保安官であることを証明します。
『早とちりの娘』でもアリスがキャラバンを離れてしまいアーサーが彼女を探しにいったところで、二人は先住民の一団に見つかり襲いかかられます。アーサーは自分が死んだ場合に、アリスが先住民の慰み者にならないために、自殺用の拳銃を彼女に持たせた後、たった一人で先住民を迎え撃ちます。
そして激しい死闘の末に、見事に先住民を撃退させることに成功させます。まさに、西部劇の時代の最期の栄光の瞬間がそこにはありましたが、アリスはアーサーが死んでしまったものと勘違いしてしまい自分の額を撃ち抜いてしまっていました。後味の悪い物語ですが、これもコーエン兄弟らしい「この世の不条理」が表れているのではないでしょうか。
ビリーとアリスの会話の中に、「命に至る門は狭く、その道は細い」という言葉が出てきますが、これはマタイによる福音書7章14節の言葉で天国への救いの道にたどり着ける者は少ない、という意味です。
この彼らが生きていた西部開拓時代の過酷さが表されています。
最後の物語の『遺骸』が意味しているものとは?

最期の物語『遺骸』はフォートモーガンへ向かう馬車の中に居合わせた5人が織りなす密室の会話劇になっています。フランス人・老婦人・猟師の3人と向かい合わせで座っているアイルランド人とイギリス人は実は自分たちは賞金稼ぎで、馬車に載せている荷物は自分たちが殺した遺体であることを明かします。
そして、自分たちの殺しのテクニックを説明するのですが、イギリス人の方がターゲットと話している最中に、アイルランド人が後ろから襲い掛かるという手法で何人もの賞金首を殺害してきたと言います。
昔ながらのカウボーイの象徴であったバスター・スクラッグスは、後ろから撃つような卑怯なことはしないと言っていましたが、そのような西部劇の時代は過ぎ去ってしまい、卑怯かどうかなど関係ない時代がやってきたことを、この『遺骸』では表しています。
この物語が始まった時には馬車の外は夕暮れ時でしたが、フォートモーガンに着いたころには、すでに日は落ちています。映画の冒頭の本の挿絵に描かれていた西部劇の時代の黄昏の風景は完全に過ぎ去ってしまったことを意味しています。
コーエン兄弟らしい「死」にまつわる物語!

これまでのほとんどのコーエン兄弟作品と同様に、今作の6つの物語でも必ず誰かしらの「死」が描かれています。しかし、「死」の描かれ方はそれぞれバラバラで全く思いがけないところからやって来るものとして描かれています。
『遺骸』の中でイギリス人の賞金稼ぎがターゲットを殺した後、彼の眼には「あの世への道」が見えていると言います。それは実際には死んだ者でないと見ることは出来ないし、死んでしまってからではそれを周りの人に教えることは出来ません。実際、イギリス人の賞金稼ぎも、あの世のことなど理解できないと言っています。結局、「死」も理解しようとしても理解できない不条理なものでしかありません。
『バスターのバラード』は「死」というモチーフを中心に据えて、コーエン兄弟がこれまでの作品でテーマにしてきたことを全て凝縮させたような濃厚な作品でした!
コーエン兄弟の作品を観たことが無い人でも、この作品を入り口として彼らの作品に触れてみるのはいかがでしょうか?