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映画『ロッキー(1976年)』のネタバレ感想・解説!落ちぶれたボクサーがチャンスを掴む

映画「ロッキー」のあらすじ・内容

映画『ロッキー』は、『ランボー』と並ぶシルヴェスター・スタローン主演の代表作で、スタローンの出世作ともなりました。

ボクシング映画の代表作でもあり、アカデミー賞とゴールデングローブ賞で作品賞を受賞しました。主題曲となった「ロッキーのテーマ」も大ヒット曲となりましたね。

今回は映画『ロッキー』の、ネタバレを含む個人的な感想や解説を書いていきたいと思います!

目次

映画「ロッキー」を観て学んだ事・感じた事

・夢が破れていく無産階級の悲哀
・老トレーナー、晩節の哀愁と再起
・崩れかけた人生を立て直そうとするロッキーに感動!

映画「ロッキー」の作品情報

公開日1976年
監督ジョン・G・アヴィルドセン
脚本シルヴェスター・スタローン
撮影ジェームズ・グレイブ
音楽ビル・コンティ
出演者シルヴェスター・スタローン(ロッキー・バルボア)
タリア・シャイア(エイドリアン)
バージェス・メレディス(ミッキー)
バート・ヤング(ポーリー)
カール・ウェザース(アポロ・クリード)
ジョー・スピネル(ガッツォ)

映画「ロッキー」のあらすじ・内容

映画「ロッキー」のあらすじ・内容

フィラデルフィアの安アパートに住むロッキーは落ちぶれた4回戦ボクサーで、近所に住む子供たちからもからかわれるほどです。ボクシングだけでは生活できず、借金の取り立てというチンピラのような仕事をして、日々を凌いでいます。

そんなロッキーの生活にも、ささやかな楽しみがあります。近所のペットショップで働いている内気な女性・エイドリアンの存在です。エイドリアンと話をするためにロッキーはペットショップに通いますが、エイドリアンはなかなか心を開きません。

ある日、ボクシングヘビー級チャンピオンのアポロが、無名選手にチャンスを与える試合を用意し、その相手にロッキーが選ばれます。安アパートで、ロッキーは決意を固めます。

映画「ロッキー」のネタバレ感想

無産階級の悲哀と希望の両面を描いた映画

無産階級の悲哀と希望の両面を描いた映画

シリーズ化されるほどのヒットとなったボクシング映画『ロッキー』ですが、1作目はボクシング映画である以上に、社会に出てから夢破れていく無産階級の悲哀と、その中にある希望や幸福を描いた映画のように感じました。

『ロッキー』の冒頭シーンは、賭けボクシングのリングです。リングに平気で物を投げつけるガラの悪い客や金貸し、薄暗い照明しかつかない会場、勝っても40ドルしか貰えないボクサー。

資本主義社会では、ほとんどの人がこの階級にいて、多かれ少なかれこの賭けボクシングの会場にいる人たちや、ロッキーと同じような苦悩を経験して生きていると思います。それが共感を呼んだのだと思います。「ああ、本当にこれだよな」と心の底まで同感出来て、他人ごとに思えないのですよね。

 

フィラデルフィアの裏通りの安アパートに暮らしているロッキー(シルヴェスター・スタローン)は、お世辞にも裕福とも成功者とも言えません。ニューヨークに近いフィラデルフィアは、アメリカ合衆国有数の大都市のひとつですが、その路地裏に入るとスラムと紙一重のうらぶれた街並みが広がっています。

映画の前半では、こうした大都市の暗部が映し出されますが、それが無産階級の悲哀をあらわしているようで、なんとも心に響きました。冒頭の賭けボクシングのシーンなどは、その象徴であるように見えました。

無産階級のうらぶれた世界の描写が見事

無産階級のうらぶれた世界の描写が見事

資本主義社会の暗部、都市部のバックストリートに広がるうらぶれた世界の空気感は、賭けボクシングの会場以外でも、これでもかというほど映し続けられます。

試合に勝っても40ドル程度のギャラ、次の試合が2週間後では、ボクシングだけではとても食えず、ロッキーは借金の取り立ての仕事をして凌いでいます。取り立てた金を元締めに渡す場所は、電車の高架が折り重なり、うしろに張り紙だらけの倉庫が見えるようなところです。

元締めから「俺の評判に関わる」「なぜ相手の指を折らなかった」とヤクザにどやしつけられた場所も、ゴミ捨て場のそばで曇り空に雪がちらついています。こうした場所は、投資や金利だけで生きたる人ではなく、泥にまみれて肉体労働をする無産階級の人たちが生きている場所です。

ロッキーが帰ってくる安アパートもうらぶれていて、窓を開けても外は隣のアパートのレンガ塀です。話しかける相手も、ボクシング・ジムの近くにあるペットショップで買ってきた亀2匹だけです。

 

こうした無産階級の悲哀は、風景だけでなく、音楽でも表現されていました。せっかく借金をとりたてても、元締めからは口悪くののしられます。それでもロッキーは仕事を失わないために「次からはいう事をきくから」と、つい答えてしまいます。この精神的な屈辱は、観ていてしのびないものがありました。「人の指を折れ」なんて言う要求に対して、「はい」と言わなくてはならないその理不尽さは、屈折した感情を呼び起こすものでしょう。

その後、貨物列車の停留場の横を歩いて家路につくロッキーのうしろで、寂しげなピアノが響いていました。映画前半では、映像は夜か曇り空、音楽は物悲しいです。

破れていくロッキーのおぼろげな夢

破れていくロッキーのおぼろげな夢

そんな大都市の裏通りの路地で、何人かの人生が描かれています。これが人間ドラマ『ロッキー』で、強く心を動かされた部分でした。そのひとりが、ロッキー・バルボアです。

ある日、ボクシング・ジムに行くと、ロッキーが長年使ってきたロッカーが他のボクサーに使われています。ロッキーがジムの会長であるミッキー(バージェス・メレディス)に抗議しても、「お前の試合ぶりは猿だよ」「お前はつぶれたトマトだ」などと、鼻で笑われてあしらわれます。さらに、こんな会話が続きます。

「引退を考えたか?」
「No」
「考えな」

ジムの会長から見放されるのは、ボクサーにとって死刑宣告に近いものではないかと思います。夢を追ってきて、その夢をあきらめなくてはいけない時というのは、多くの人が経験している事でしょう。甲子園を目指して、子どものころから野球をやってきた少年が、高校野球の地区予選で負けた瞬間などは、ひとつの人生が終わった瞬間ではないでしょうか。

ロッキーの部屋には、子どものころの自分の写真や、かつてのボクシング・ヘビー級チャンピオンのロッキー・マルシア―ノの写真が飾ってあります。子どものころから憧れ、ずっとボクシングをやってきたのでしょうね。それが、大人になってだんだん自分の実力がはっきりしてきて、それでも何とか続けてきて、でもその終わりをはっきりと言葉で言われてしまう。社会に出て、いずれみじめな現実の型にはまってしまうのです。

夢の破れ方のリアルさ

夢の破れ方のリアルさ

ロッキーの1作目のすばらしさのひとつは、自分の問題として感情移入できるリアルな点だと感じます。

この映画を何度見ても、ロッキーが「努力しなかったから落ちぶれた4回戦ボクサーに甘んじた」「金貸しの手下になって働いてるようだから本筋のボクシングで大成できなかった」と描かれていません。努力して来たかどうかは描かれておらず、確かな事はロッキーが「ボクシングだけでは食えないから、借金の取り立てをやって生計を立てながら、何とかボクシングを続けている」という事です。これがリアルでした。

ジムに通っている以上、練習や努力だってしていたでしょう。安アパートのロッキーの部屋にもそれはあらわれています。狭いロッキーの部屋ですが、入り口を入って左手にある破けた布のようなものがありますが、あれ、気になりませんか?最初、あれって何なのだろうかと思ってたのですが、もしかして、マットレスをサンドバッグ代わりにしていたのではないかと思ったら合点がいきました。ロッキー・マルシアーノの写真といい、少なくとも、それぐらいボクシングに情熱を燃やしていた時期があるのでしょう。

無産階級の生活の中にある幸福

無産階級の生活の中にある幸福

とはいえ、無産階級や肉体労働者が、あるいはその生活が、常に悲哀に満ちているというわけではありません。どんな環境で生きていても、友人と楽しく話すとか、お気に入りの喫茶店で過ごすとか、ささやかな楽しみってそれなりにあるものですよね。ロッキーの場合は、ボクシング・ジムの近くにあるペットショップに務めている内気な女性・エイドリアン(タリア・シャイア)に会う事が、ささやかな楽しみでした。

夢が破れかけたロッキーにとって、エイドリアンはささやかな希望であるように感じられました。折に触れ、ロッキー自身の自己評価が高くない描写がなされます。夜遅くまで街中で不良たちとたむろしている少女に、そんな事では良くないとさとすシーンがありますが、あれなどは次に続く老トレーナー・ミッキーの心情の前振りというだけでなく、自分自身の失敗を若い人にして欲しくないという心情のあらわれなのでしょう。そんな「ごろつき」だったロッキーだから、内気でファッションにも無頓着で、誰からも見向きのされないエイドリアンの良さに気づく事が出来るのかもしれません。

 

虚無感を覚え、社会から見捨てられかけているようなふたりは、「痛みが分かる」のでしょう。ボクシングから見放され、社会からはみ出しかけたロッキーには、彼女の美しさに気づく事も、同調する事も出来ます。

この小さな恋の物語は、夢破れかけたロッキーの、第2の人生の前向きな理由になっていきます。営業の終わったスケートリンクでの、ロッキーとエイドリアンのデートシーンは、この映画の見どころのひとつだと思いますが、そこでのロッキーの言葉がたまりませんでした。

「ファイトは生きがいだったがもうやめるんだ」
「俺にもできるってことをみせたかったのさ」

エイドリアンが階段をあがるのか、あがらないのか

映画『ロッキー』には好きなシーンがいくつもあるのですが、特に際立ったシーンは3つだと思います。そのひとつ目は、ロッキーとエイドリアンのキスシーンです。このシーンは、タリア・シャイアの演技力のすばらしさに尽きると思います。

エイドリアンは、ロッキーの友人でもある兄・ポーリー(バート・ヤング)にいつも卑下されています。そして、やぼったいメガネをかけ、着ている服も地味でセンスがなく、デートの時ですら帽子をかぶって顔を隠してしまいます。自分に自信がない人は、時として地味な格好をして自分を目立たないようにしますが、エイドリアンもそうなのかも知れません。

人の目を見て話す事すら出来ない内気なエイドリアンが、ロッキーとのデートで少し心を開きますが、デートの後に彼の部屋に誘われた時に、彼の部屋に続く階段を上がる事に躊躇します。彼女は「帰る」といいますが、ロッキーの誘いに最後には階段をあがります。この「階段を上がる」という事自体が、自分の殻を破るという事なのでしょうが、ここでの戸惑いながら階段を上る演技のすばらしさは絶品でした。

『ロッキー』の名シーン、エイドリアンのファーストキス

『ロッキー』の名シーン、エイドリアンのファーストキス

そして、ロッキーの部屋でのキスシーンです。兄にさんざん卑下されてきたエイドリアンは、ロッキーが迫っても、からかっているのかもしれないと信用しきれません。でも、メガネをはずされ、帽子も取られたエイドリアンは、それまでのやぼったい彼女とは違い、きれいです。

ロッキーが「キスしていいか」と言って以降、タリア・シャイアは一言もしゃべりません。以降はすべて、目の演技なのです。今までは目すら合わせなかったエイドリアンが、ロッキーの目を見ています。それでも、からかわれているのか本気なのか、信用しきれないような不安さも目の演技でした。最初に少し唇が触れた瞬間は、生来の内気さが出て、少し目をそらします。しかし次のキスでは…もう、これらがすべてセリフなしの視線で演技されているのです。これは見事な演技でした。

ちなみにこのシーン、スタローン自身は、「たくさん映画に出演してきたが、これがいちばん素晴らしいラブシーンだった」と語っています。それもうなづけるぐらいの、タリア・シャイアの名演技だと思いました。

もう一人の主役・ミッキーの放った、最高のセリフ

もう一人の主役・ミッキーの放った、最高のセリフ

ボクシング・ジムの会長であるミッキーはロッキーに次いで見事に描かれていました。

ミッキーは、白髪で頭も薄くなった老人で、ロッキーに引退をすすめた張本人でもあります。口は悪く、優しさとは無縁で筋を通す厳しさを持つ、鬼トレーナーという風です。そんなミッキーの人物像と行動に、心を揺さぶられるものがありました。

ロッキーにつらく当たるミッキーに対して、ついにロッキーが腹を立てます。

「もう6年になるのに何で目の敵にするんだ」
「いい素質を持ってるのに、二流の高利貸しの手先に成り下がったからだ」
「食うためさ」
「クズの人生だ!」

ミッキーの言った「クズの人生」は、もともとのセリフでは「It’s a waste of life」です。ニュアンスが伝わりにくいですが、waste には時間や才能を浪費する、無駄にするという意味があります。「無駄に使われた、失われた人生」というニュアンスが、すべて「waste of life」に詰まっているのですよね。この言葉には心を動かされました。

 

人間、言葉ではなんでも弁解できてしまいます。あれはこういう理由で仕方なかった…そうやって人間は、自分にまで嘘をついて、自分で自分を堕落させていくのかも知れません。ロッキーが食うために仕事をした事は嘘ではないし、またそうするしかなかった事は、正しいのでしょう。しかし、そうして過ごされた人生が「waste of life」である事は、言い訳の出来ない事ではないでしょうか。人に対して言い訳できても、自分には言い訳が出来ません。

「あれは仕方なかった」「これは理由があった」といって、金貸しの手下になって働いて、生きて、そして人生最後の瞬間を迎えた時に、ロッキーは「仕方がなかった人生だった」と納得して死んでいけるのでしょうか。「いい素質を持ってるのに、二流の高利貸しの手先に成り下がった」「失われた人生だ」は、崩れかけたロッキーを、もう一度立ち上がらせる叱咤激励の一撃であったと感じました。

個人の権利や自由ばかりが叫ばれるようになった世の中になってきましたが、こうして叱咤してくれる人がいるというのは、なんと有り難い事かと思ってしまいます。これで「waste of life」の愚かさに気づけたのであれば、人生の救いです。甘えた優しさなどではなく、正しさから出る言葉特有の言葉にしびれました。

第3の名シーン、老トレーナーが安アパートを訪ねる

第3の名シーン、老トレーナーが安アパートを訪ねる

ロッキーは、もうボクシングから足を洗って、次の人生を模索しはじめます。デートの帰り、ロッキーがエイドリアンにいうセリフは、あきらめと希望のないまぜになったようなものでした。

「バカと内気でいいコンビになるよ」
「俺もゴロツキになりかかってる」

 

そんなロッキーに、またとないチャンスが舞い込みます。試合直前に挑戦者を失ったヘビー級チャンピオンのアポロ・クリード(カール・ウェザース)が、無名のボクサーにチャンスを与えるタイトル・マッチを思いつくのです。そして、「イタリアの種馬」という名前のインパクトだけで、ロッキーが挑戦者に選ばれます。

その知らせを聞いたミッキーは、自分がマネージャーを務める事をロッキーに提案します。このシーンは、もう先の長くない老人の悲哀を感じさせるものでした。しかし、ミッキーによってボクシングの道を塞がれかかったロッキーの返事は冷たいものでした。

「10年前に助けて欲しかった」

ロッキーは老トレーナーの申し出をはねつけて、洗面所に逃げ込みます。そして、気丈な老トレーナーが、「俺はもう76歳だ」とはじめて弱ったように声をふりしぼり、つぶやきます。このミッキーの演技がたまりませんでした。

ミッキーの人生と、バージェス・メレディスの素晴らしい演技

ミッキーの人生と、バージェス・メレディスの素晴らしい演技

ここから、ミッキー役のバージェス・メレディスは、セリフなしですべてを語ります。このシーンでの演技は、老俳優最後の名演としか言いようのない、素晴らしいものでした。

ロッキーが閉ざした扉にすがりつくように近づき、そして少し首をうなだれます。あきらめた老トレーナーが扉に背を向け、出口に向かう時の横顔では、今まで目を見開いてボクサーたちを怒鳴りつけていた人間とは別人のように、涙をこらえるような、老いた悲しみに耐えるような、なんとも言えない表情です。

そして、階段を下りて帰る後ろから、憤ったロッキーの叫び声が聞こえます。その場を去っていく老人の後ろ姿は背中で語っています。人生の最後に、トレーナーとして過ごしてきた最大のチャンスが訪れたというのに、それを断られるのです。この悲哀は胸をしめつけられる感じでした。そのすべてが、セリフなしで語られているのです。これは見事というよりありませんでした。

 

このシーンに限らず、『ロッキー』でのメレディスの演技はものすごいです。「G・I・ジョー」でも「大脱獄」でもいいですが、メレディスが出演した他の映画と見比べると、同一人物とは思えないほどです。

それがロッキーでは、短気で理屈より啖呵が先に出て、ボクシング狂の鬼トレーナーで、それでいて自分の死期を悟った老人の悲哀を感じさせます。低予算映画ロッキーの中で、特に突出したプロフェッショナル俳優だったと思います。

アポロとの死闘、敗色濃厚でも立ち上がる事

アポロとの死闘、敗色濃厚でも立ち上がる事

映画後半でのロッキーはミッキーと和解し、過酷な練習に耐え、本気で世界チャンピオンを倒しに行きます。でも、試合前になって、ロッキーはエイドリアンにその心中を告白します。

「ダメだ、勝てないよ。歩きながら考えたんだ、俺には挑戦者の素質はない」

4回戦級のボクサーと世界チャンピオンでは当然です。それでもロッキーは「最後のゴングがなってもまだ立ってられたら、俺がゴロツキじゃないことを、はじめて証明できるんだ」とその中で前を向く意義を見出します。

 

そして、有名な最後のアポロ・クリード(カール・ウェザース)との死闘のシーンに繋がります。ろくに練習もせず、慢心してきたチャンピオンに対し、ロッキーは善戦しますが、しかしラウンドが進むごとに実力の差は明らかになり、ロッキーのまぶたは腫れ、目を開ける事すら難しくなっていきます。ボクサー生命に関わるほどのダメージ、さらに勝つ見込みはもうなくなったのを見て、老トレーナーが、リングに這いつくばるロッキーに叫びます。

「起きるな!」

もとのセリフでは、叫ぶように何度も、「down, down, stay down!」と叫ばれているのです。あのボクシングに勝つ事だけに執念を燃やし、この瞬間を50年待ったとまで言った鬼トレーナーが、この言葉を叫ぶのです。ここは、間違いなく映画のクライマックスでした。そしてその言葉をききながらも、ロッキーはロープにつかまりながら必死に立ち上がるのです。胸が締めつけられる思いでした。

この最後のボクシングシーンは、人生で「ごろつきになりかけている」ほとんどの人が、「負けてもなぜ戦うのか」という事の比喩になっていると感じました。

ロッキーのテーマ、その映画での使われ方

あの死闘の感動は老トレーナーの叫びやそれでも立ち上がるロッキーのほか、カール・ウェザースもスタローンも、本当にボクシングをやっていたのではないかというほど見事な動きを見せた点など、色々な要素が重なった結果ではないかと思いました。なかでも、音楽が感動を何倍も増幅させたのではないかと思っています。あの有名な「ロッキーのテーマ」です。

この映画では、音楽がたくみに使い分けられていたと感じました。基本はロッキーやエイドリアンといった都市部の労働者階層が聴くロックやファンク、ソウル系コーラスなどの音楽が使われて言います。前半の憂愁なシーンでは、ピアノだけの物悲しい音楽が何度も使われています。

そんな中、管弦を使った少し哀愁を帯びながらも勇ましくもある「ロッキーのテーマ」は、映画の中で3度、象徴的に使われます。映画冒頭の賭けボクシングシーンでは、テーマの片鱗だけです。2度目は、「ごろつきになりかけている」ロッキーが前を向いて、死に物狂いのトレーニングに打ち込むシーンで、ここであのテーマが最も勇壮に響きます。

 

そして3度目が、アポロとの死闘シーンです。ここで使われるテーマはバリエーションで、フォルテ(大音量)かつ切なく鳴り響くのです。

約2時間のこの映画の構成は起承転結というより序破急だと思うのですが、その変化を音楽が作りだしていて、ドラマを1本にまとめていると感じました。

アメリカン・ニューシネマと次の時代の間に生まれたハリウッド映画の傑作

アメリカン・ニューシネマと次の時代の間に生まれたハリウッド映画の傑作

『ロッキー』は1976年に制作された映画です。ベトナム戦争をまだ引きずっているアメリカの風潮の中、映画の主流であったのは、反体制的な心情をつづったアメリカン・ニューシネマといわれるものでした。

ロッキーの映画の前半は、夜やくもり空の描写が多く、主人公は夢の破れかけた3流のボクサーとニューシネマ的な雰囲気を漂わせていました。しかし、後半が違っていて、ロッキーは前を向き敗れこそしたものの、全力を尽くした挑戦と死闘を繰り広げました。

アメリカン・ニューシネマの映画が主流の時代に、「努力したら勝つ」というニューシネマ的ではない展開、安直なもので終わらない結末の映画でした。ニューシネマ的な美感であれば、「I love you」でエイドリアンと抱き合うラストにはせず、試合に敗れてエイドリアンと二人で寂しく闇に消えていくとか、二度と試合が出来ない体になるとか、そういうラストになっていておかしくないと思います。しかしそうではなく、「最後のゴングがなってもまだ立ってられたら、俺がゴロツキじゃないことを、はじめて証明できるんだ」という結論に持っていったところが、現実から乖離せず、同時に前を向いたというアメリカの時代潮流を捉えていたのだと感じました。

 

ロッキーの次の世代のハリウッド映画は、スーパーマンやスターウォーズlエディ・マーフィーなどです。前を向き、倒されても立ちあがるクライマックスにした所が、アメリカが次の時代に踏み込んだ象徴となった映画ではないでしょうか。

心打たれた、ハリウッド映画史に残る名作の一つだと思います!

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