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映画『セブン』ネタバレ感想・解説・考察!七つの大罪をモチーフとしたサイコサスペンスの傑作

映画『セブン』のあらすじ・内容

猟奇殺人をテーマとした作品は数多くありますが、映画『セブン』ほど完成度の高いサイコサスペンスはそうそうないでしょう。

七つの大罪をモチーフとした猟奇殺人事件と、それを追いかける刑事たちの姿を小気味よいテンポで追いかける物語。やがて犯人の真意を知り、結末を見届けたとき、観た人の心にはとても嫌な気分が残るはずです。

今回はそんな映画『セブン』の感想や解説、考察を紹介します。なお、犯人役のキャストやオチを伏せているので、一応ネタバレは少なくなっていますが、鑑賞前に読む場合はご注意ください。

目次

映画『セブン』を観て学んだこと・感じたこと

・「七つの大罪」と猟奇殺人事件を絡ませた上質なサイコサスペンス
・物語に呼応するかのような上質な映像表現
・陰鬱なラスト、とても暗い気分に浸れる作品

映画『セブン』の作品情報

公開日1996年1月27日
監督デヴィッド・フィンチャー
脚本アンドリュー・ケヴィン・ウォーカー
出演者デビッド・ミルズ(ブラッド・ピット)
ウィリアム・サマセット(モーガン・フリーマン)
トレイシー・ミルズ (グウィネス・パルトロー)
警部(R・リー・アーメイ)

映画『セブン』のあらすじ・内容

映画『セブン』のあらすじ・内容

定年退職まであと1週間となったウィリアム・サマセットと新米刑事のデビッド・ミルズが遭遇した猟奇殺人事件。死亡していた肥満の男を解剖した結果、胃が破裂しそうなくらいに食べ続けたまま、何者かによって腹部を殴打されていたことが判明しました。

事件に不可解なものを感じたサマセットは、現場にあった冷蔵庫の裏に「GLUTTONY(暴食)」の文字と、犯人が残したと思われるメモを発見します。

この事件だけでは終わらないというサマセットの推測通り、次の事件が起こります。被害者は腹の贅肉を1ポンド分切り取られており、しかも犯人がどこを切り取るか選ばせていたという異常な状況です。

またもや現場に残された「GREED(強欲)」の文字から、これがキリスト教における七つの大罪をモチーフとした見立て殺人であるとサマセットは判断します。犯人の意図が見えないまま、サマセットとミルズは捜査を続けるのですが――。

映画『セブン』のネタバレ感想

【解説】監督デヴィッド・フィンチャー起死回生の一作

【解説】監督デヴィッド・フィンチャー起死回生の一作© 1995 – Warner Bros. Entertainment

映画『セブン』は、キリスト教における七つの大罪をモチーフとした猟奇殺人と、それを追いかける刑事を描いたサイコサスペンスです。

七つの大罪とは、高慢(pride)、強欲(greed)、嫉妬(envy)、憤怒(wrath)、色欲(lust)、大食(gluttony)怠惰(sloth)のことです。罪そのものというよりも、人間を罪に向かわせる源のことだといえるでしょう。本作ではこの七つの大罪に見立てた猟奇的な殺人が発生します。

 

『セブン』の脚本を書いたのは、アンドリュー・ケヴィン・ウォーカー。本作は彼の最初期の作品であり、なおかつ出世作でもあります。ウォーカーはニューヨークに住んでいた頃に本作の脚本を書いており、当時犯罪の絶えなかったニューヨークで、毎日見て見ぬふりをして生きていくのが嫌だったと述懐しています。

ジョン・ミルトンの『失楽園』やダンテの『神曲』といった古典も呼び水として書き上げられた脚本は、彼のニューヨークでの生活や当時の感情もない交ぜとなって『セブン』の世界を浮かび上がらせます。その後、ウォーカーは『ファイト・クラブ』や『スリーピー・ホロウ』といったヒット作を手がけるなど、脚本家として着実にステップアップしていきました。

ウォーカーの煮詰まった感情にまみれた脚本を手にしたのが、監督のデヴィッド・フィンチャー。『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』や『ソーシャル・ネットワーク』『ゴーン・ガール』といったヒット作を連発する監督として有名です。しかし、『セブン』担当前のフィンチャーは、ちょうどデビュー作『エイリアン3』が各方面から酷評され、意気消沈していました。新たに映画を撮るくらいなら大腸がんで死んだほうがマシだと語るなど、しばらくは映画脚本を読むことすらしなかったといいます。

そんなフィンチャーが本作の脚本を読み、再び映画を撮ろうという気になったのですから、いかにウォーカーの脚本が衝撃的だったというのがわかるというものです。フィンチャーとウォーカー、ふたりのタッグによって生み出された映画『セブン』は興行収入的に大ヒットを記録し、各方面の映画批評からも概ね肯定的な評価を得ています。

【解説】ブラッド・ピットとモーガン・フリーマンが彩る刑事ドラマ

【解説】ブラッド・ピットとモーガン・フリーマンが彩る刑事ドラマ© 1995 – Warner Bros. Entertainment

『セブン』の主人公、デビッド・ミルズを演じるのはブラッド・ピットです。もはや語る必要もないくらいに有名な俳優のひとりですが、彼が有名になったのは『セブン』が公開された1995年頃からではないでしょうか。ちょうど1994年から2000年あたりにかけて、ピットは『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア』『12モンキーズ』『デビル』『セブン・イヤーズ・イン・チベット』『ジョー・ブラックをよろしく』など、名だたる作品に出演しています。

1999年には同じく監督デヴィッド・フィンチャー、脚本アンドリュー・ケヴィン・ウォーカーによる『ファイト・クラブ』にも出演。ピットの演技的な部分には一部否定的な意見も見られたものの、この時期に彼は一気にハリウッドスターの階段を上り詰めたような印象があります。

 

そんなピットが演じるデビッド・ミルズは、自信過剰で感情まかせなキャラクターであり、マルキ・ド・サドを「マルキ・ド・シャドー」と読み間違えるなど、文学への素養を全く持ち合わせていない人物です。ハイスクール時代からの付き合いである妻のトレーシーを愛している一方で、仕事のせいで彼女とすれ違いができてしまっていることを悩んでいます。

もうひとりの主人公であるウィリアム・サマセットは、定年退職を1週間後に控えた冷静沈着な性格なベテランの刑事です。作中で発生した連続猟奇殺人事件が七つの大罪をモチーフとした見立て殺人であり、事件がくり返されることを早々に推測するなど、洞察力にも優れています。文学や芸術への造詣も深く、疑問に思ったことは図書館で徹底的に調べ上げる彼は、感情的なミルズとは正反対のキャラクターだといえるでしょう。

サマセットを演じるのは、言わずと知れた実力派名俳優のモーガン・フリーマンです。出演作品はヒット作だけに絞ったとしてもキリがありません。2004年にはクリント・イーストウッド監督による『ミリオンダラー・ベイビー』でアカデミー助演男優賞も獲得しました。

【解説・考察】七つの大罪とサイコサスペンスが融合した脚本

【解説・考察】七つの大罪とサイコサスペンスが融合した脚本© 1995 – Warner Bros. Entertainment

映画『セブン』の魅力のひとつは、七つの大罪をモチーフとして行われる猟奇殺人が一体どのような意味を持つのかという点にあります。直接的な描写はないものの、殺人の手口はなかなかグロテスクであり、観る人によってはきついものがあるかもしれません。

最初に起きた事件での死因は、常人が食べきれないほどの食事を大量に摂取した状態で、腹部を殴打されたことによる内臓破裂です。これは大食(gluttony)をモチーフにしていることが明らかになります。次に起きた事件では、死体は贅肉を1ポンド分切り落とされていました。これはシェイクスピアの『ベニスの商人』における強欲な商人シャイロックのエピソードにちなんだものであり、そのまま強欲(greed)をモチーフとしています。しかも、犯人は被害者にどこの肉を選ばせていたことが推測されるなど、犯行の異常性は誰もが認めるところです。

その後も、左手首と舌を切り落とされ、薬漬けのままただ生きている状態にさせられた男は怠惰(sloth)を、刃物がついた挿入具で性交し死亡した女性は色欲(lust)を表しているなど、目を覆いたくなるような事件が続きます。残った大罪に対して、次は誰が、どんな状態で犯行に巻き込まれるのか。そして大罪をモチーフとした殺人を続ける犯人の真意は何なのか。こうした点を視聴者がミルズやサマセットとともに事件を追いかけていく展開は、サスペンス調の物語の面白さを良く掴んでいるといえるでしょう。

 

また、本作をダンテの『神曲』における地獄篇の設定と照らし合わせてみると、ミルズ、サマセット、そしてトレイシーの関係が別の焦点を結び始めます。地獄篇の内容は、主人公のダンテが、夭折した永遠の淑女ベアトリーチェの頼みによって辺獄から飛び出した古代ローマの詩人ヴェルギリウスに導かれ、地獄の世界を旅するというものです。ダンテはヴェルギリウスとともに、愛欲、貪食、貪欲、憤怒といった罪に呼応する地獄を巡り、やがて煉獄山へと至ります。

これを『セブン』に照らし合わせるならば、舞台となる街の醜悪さを知らずに着任してきたミルズは、さながら地獄に迷い込んだダンテと位置づけることができるでしょう。もちろん、この世を地獄のような場所と捉えるサマセットはヴェルギリウスであり、物語の水先案内人としてミルズを導くこととなります。そして、ミルズの妻であるトレイシーは、物語の序盤にサマセットを夕食に招き、ミルズとの間を取り持つなど、ベアトリーチェの役回りを担っていることは想像に容易いといえるでしょう。

小気味よいテンポで、大罪のモチーフを知らない人にもわかりやすい説明で繰り広げられる『セブン』の物語は、観る人をぐいぐいと引きつける力を持っています。しかし、下地にある古典文学を知っていると、さらに楽しめる構成になっているのです。

【解説】「銀残し」をはじめとする表現が陰鬱な世界観を浮かび上がらせる

【解説】「銀残し」をはじめとする表現が陰鬱な世界観を浮かび上がらせる© 1995 – Warner Bros. Entertainment

本作の映像表現として特徴的なもののひとつに、「銀残し」と呼ばれる手法があります。銀残しとは、フィルムの現像法のひとつです。通常、現像時に銀を取り除く処理をあえて行わないことによって、映像における暗部が際立ち、画面上でのコントラストを生み出します。また、色味に乏しい雰囲気を演出するのに用いられることもしばしば。もともと日本で生まれた映像表現である銀残しは、海外でも『プライベート・ライアン』をはじめ、いくつかの作品で見ることができます。

本作『セブン』はこの銀残しによって、暗い都市の様子はもちろんのこと、事件現場における陰鬱な雰囲気を印象づけることに成功しています。そんな暗い画面上において、時折差し挟まれる緑色もまた、映像を引き締める効果をもたらしているといえるでしょう。路上で配られるビラ、事件現場で用いられるゴム手袋、図書館や分署長の部屋などに見られる緑色のランプが、単調な色彩空間に印象深く映し出されます。

 

オープニングの演出もセンスに溢れています。不安になるような映像がめまぐるしく切り替わっていくなか、キャストやスタッフのクレジットが震えるようにして表示される描写が印象的です。クレジットの演出は映画やゲームのタイトルデザイナーとして有名なカイル・クーパーによるもの。本作の公開後、これを模倣したようなクレジットが数多く制作されたといいます。

また、エンディングではエンドクレジットが上から下へ降りていくという、他ではあまり例を見ないスタイルになっています。しかも、最初にクレジットされるのは真犯人の名前です。救いようのない結末を慰めるような雰囲気は一切なく、不協和音やノイズにまみれたデヴィッド・ボウイのエンディングテーマがいつまでも後味の悪い感情を残します。

【考察】サマセットは犯人に同調していた?

【考察】サマセットは犯人に同調していた?© 1995 – Warner Bros. Entertainment

何が何でも犯人を捕まえてやろうと意気込むミルズとは対照的に、つねに冷静で理知的な様子を見せるサマセット。しかし、そんな彼はときに厭世的な雰囲気を匂わせます。そこには、犯罪を許せないとしながらも、いち刑事である自分だけではどうしようもない現実に打ちひしがれる彼の苦悩があります。

物語の冒頭、とある夫婦が喧嘩の末にお互いを殺した現場でサマセットが最初に思ったのは、その現場を子どもが見たのかということでした。他の刑事にそのことを聞くと、そんな心配は刑事のすることではないと一蹴されます。ただ盲目的に事件を解決するということができないサマセット。事件の裏にあった動機や、痛ましい事件によって影響を被るであろう弱者から目を離すことができない彼の性格が良く表れているといえるでしょう。

 

冒頭におけるサマセットのそんな心配は、物語の中盤でトレイシーから相談を受けるシーンともつながっています。引っ越して間もないトレイシーは、夫のミルズになかなか言えない悩みをサマセットに打ち明けます。その悩みとは、教師としていろんな街を見てきたが、この街の状況は酷すぎるという嘆きであり、そんな酷い状況下でミルズの子を妊娠していることでした。

サマセットもまた、かつて一緒に暮らしていた女性がいたと告げ、こんな酷い世界で産むくらいならばと、女性へ堕胎するように説得したことがあると明かします。サマセットにとっては、これから生まれてくる子どもが不憫でならないくらいに、世界とはどうしようもなく醜くて汚らしいものであると考えているのです。

おそらく、サマセットが刑事の目線から見る世界は、彼にとって耐えがたいものであったのでしょう。だから、退職後は田舎で静かに暮らすと呟いたのかもしれません。これ以上、酷い現実を見なくて済むように。

 

しかし、連続猟奇殺人事件を追いかけるにつれて、被害者がいずれも七つの大罪を犯していたように見えることを知り、サマセットは少しずつ、犯人の真意を知りたいと考え始める……ように見えていきます。サマセットのそんな様子を端的に表していると思われるのが、彼とミルズの会話におけるこんな台詞です。

「もし捕まえたジョン・ドゥが本物の悪魔だったらお前も納得するだろう。だが悪魔じゃない、奴も人間だ」
「俺はもう無関心が美徳であるような世の中はうんざりだ」

サマセットがミルズに向けた台詞ですが、後半は自身の気持ちを反芻しているようにも取れます。もし犯人と目されるジョン・ドゥが本当にただの狂った殺人者であったなら、サマセットも何も考えずに犯罪を取り締まるだけで済むでしょう。しかし、犯罪に手を染めるのはいつも悪魔ではなく、サマセット自身と同じ人間です。そして。七つの大罪を犯した被害者もまた、同じ人間なのです。地獄のような世界は、同じ人間同士によって作り上げられている――。

その事実に対して無知なままでいるか、もしくは無関心を装っていれば、何も悩む必要がありません。しかし、無関心が美徳であるような世の中にうんざりしているサマセットには、それが我慢ならないのです。

 

サマセットの性格は『セブン』を書き上げた脚本家ウォーカーの述懐とも通じる部分があります。もしかするとウォーカーは、サマセットに自分を重ねていたのかもしれません。

もしジョン・ドゥが罪を犯した人間を憎んで犯罪に手を染めているのだとしたら、サマセットと同じく、「目の前の現実に対して無関心ではいたくない」側の人間だということです。その手法はともかく、サマセットはジョン・ドゥの真意がどちらであって欲しいと思っていたのでしょうか。

おそらく、自身でもわかってはいないのかもしれません。ミルズとの会話が終わり、自室に戻ったサマセットは、部屋に置いてあったメトロノームを床に投げつけ、部屋でダーツボードに向かってくり返しナイフを投げつけるなど、それまでの彼とはかけ離れたような行動を見せます。ジョン・ドゥの真意を知りたいという気持ち、そして理想と現実の間で苦しみ苛立つサマセットの感情が、暴力的に表出したシーンといえるでしょう。

 

少しネタバレになりますが、結果としてジョン・ドゥは本物の悪魔ではなく人間でした。しかし、自分のしていることは特別であり、自分が選ばれた人間であるとして、大罪に耽った人を粛正してまわったのだと言います。そのうえで、ジョン・ドゥはこの世でもっとも罪深いのは、目の前で起きている罪に対して見て見ぬふりをする普通の人間だと言うのです。

「だが問題はもっと普通にある人々の罪だ。我々はそれを許している。それ(被害者が犯した罪)が日常で些細なことだから、朝から晩まで許してる」

この台詞とともに、サマセットの顔が映るシーンが印象的です。ジョン・ドゥの思考は、サマセットとひどく似ています。自身と同じような方向を向いていたジョン・ドゥに対して、サマセットは何を思ったのでしょうか。その真相が、彼の口から語られることはありません。

 

本作の結末はとても嫌なものです。映画史上、もっとも嫌な結末をもたらす作品のひとつとして本作を挙げる人もいるでしょう。

物語の最後は、アーネスト・ヘミングウェイの作品を引用した、サマセットのこんな台詞で締めくくられます。

「『この世はすばらしい、戦う価値がある』と。後の部分は賛成だ」

退職とともにフェードアウトしたかったサマセットがはじめて見せた意思。それは、悲惨な現実から目を背けることなく、ひたすら戦い続ける意思として、ジョン・ドゥとは異なる道を模索しているように見えます。

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