映画『リズと青い鳥』は、大人気原作小説『響け!ユーフォニアム』の第二楽章にあたる部分から、3年生の鎧塚みぞれと傘木希美の物語のみを抜き出したスピンオフ的な作品です。
そのため、基本的な設定やキャラクターたちの顔ぶれはシリーズのものと同一なのですが、続編もののスピンオフ作品としては考えられないほどに「独創的なチャレンジ」が満載な異色の作品でもあります。
今回はそんな『リズと青い鳥』の個人的な感想や考察を書いていきます!なお、ネタバレには注意してください。
目次
映画『リズと青い鳥』を観て学んだこと・感じたこと
・「愛の質的な違い」はすれ違いを引き起こしていく
・実験的な手法の多さにチャレンジ精神を感じた
・相当に好みが分かれる作品かもしれない
映画『リズと青い鳥』の作品情報
公開日 | 2018年4月21日 |
監督 | 山田尚子 |
脚本 | 吉田玲子 |
出演者 | 鎧塚みぞれ(種崎敦美) 傘木希美(東山奈央) リズ・少女(本田望結) 中川夏紀(藤村鼓乃美) 吉川優子(山岡ゆり) |
映画『リズと青い鳥』のあらすじ・内容

北宇治高校吹奏楽部に所属する2人の3年生、鎧塚みぞれと傘木希美。二人は互いに親友であり、同時に部活の大切な仲間でした。
しかし、二人は傍から見るとその個性に大きな差があります。希美との日々が人生の全てであり、周囲とは距離を置くみぞれと、誰とでも親しく接することができ、友人に囲まれている希美。
幸せそうに過ごす希美を見て、みぞれは希美が自分の前から消えてしまうことを危惧するようになります。
そんな二人が最後に出場するコンクールの自由曲が「リズと青い鳥」に決まりました。この曲には、みぞれと希美が担当するフルートとオーボエのソロが用意されています。
童話をもとにしたこの曲を演奏するにあたり、みぞれと希美は自分たちを童話の登場人物に重ね合わせるようになりました。すると、これまで見えなかった「切ない真実」が、だんだんと顔をのぞかせてくるのです…。
映画『リズと青い鳥』のネタバレ感想
スタッフ・キャラデザが一新されるという驚きの編成に

今作はスピンオフ作品ではありますが、本編の「ユーフォニアム」シリーズは既にアニメ化され大ヒットを記録しています。また、今作もこれまで同様制作会社は京都アニメーションであり、その点に関しても大きな変更はありません。
しかし、驚くべきことに今作は監督や脚本、さらにはキャラクターデザインまでが一新されるという特異なスタッフ編成がなされています。売り上げが予想以上に低迷している、あるいはスタッフ間に何らかのトラブルがあった場合は例外ですが、通常ヒット中の作品で製作スタッフを一新するというのは考えられません。
さらに、2019年に公開された続編映画『誓いのフィナーレ』では、ふたたびアニメ版のスタッフが再登板しています。したがって、何かトラブルがあったわけではなく、もともと今作のみ異なるスタッフで映画を作成することが既定路線であったのでしょう。
では、異例の形で「リリーフ登板」したスタッフはどのような顔ぶれなのでしょうか。まず、監督は『聲の形』『けいおん!』などのヒット作で知られる山田尚子、脚本もヒットメーカーの吉田玲子と女性スタッフが多く、同時に『聲の形』で活躍したスタッフが再登板配置しているのが特徴です。
これは今作の特徴の一つである「女子高生2人の関係性だけに焦点を当てる」という点をより魅力的に描き出すための配置といえるでしょう。特に、山田尚子は同じく京アニが作成したアニメ『たまこマーケット』の続編として、全く異なる観点作成した『たまこラブストーリー』が高く評価されているのも事実です。スピンオフの制作にあたり「限定的な路線変更をする」というイメージは、制作会社・現場スタッフ間に共有されていた認識といえます。
さらに、特筆すべきはキャラクターデザインが一新されていることです。今作はこれまで『聲の形』や『氷菓』でキャラデザを担当した西屋太志が作画を担当しているため、これまでのキャラデザに共通していた「アニメ的な可愛さ」というものが極力排され、極めて写実性を意識したキャラデザに変更されています。この変更についてはファンたちの間でも賛否両論でしたが、個人的には今作のキャッチコピーである「切ない真実に、あなたは涙する」に象徴されるようなリアリズム重視の脚本には、デフォルメを極力排したキャラが合っているように感じました。
なので、全体的なスタッフ変更は「二次元的なもの」と距離を置くために行なわれていると考えられます。そのため、今作の内容は良くも悪くも非常に写実的であり、同時にこれまでのシリーズ作品とは決定的に異なる作品のカラーを持ち合わせています。
みぞれと希美、青い鳥とリズの絵本による二重構造物語

今作を視聴された方は、「みぞれと希美」「青い鳥とリズ」の物語が独立しつつも対比の構造として描かれていたことは理解できるでしょう。二人はお互いに惹かれあっているようで、実際のところはあまりにも明確な立場の違いが浮き彫りにされています。
物語序盤ではみぞれがリズとして、希美が青い鳥として描かれています。童話のように青い鳥と親交を深め、お互いのことをかけがえのない存在だと我々に認識させるような演出の数々。しかし、物語の中盤でリズは自身が青い鳥を拘束していることに気づき、大切に思いながらも青い鳥を解き放ちます。
この決断はみぞれにとって理解できるものではありません。なぜなら彼女にとって希美は世界の全てであり、希美のいない世界を考えることはできないからです。ここまでの点では、あくまで「リズ=みぞれ」「青い鳥=希美」であると表現できるでしょう。
しかし、コンクールと進路選択の時期が近づくにつれて関係性に大きな変化が見られます。みぞれは音大への進学を勧められ、希美が追従したことでみぞれもその気になりますが、希美を気遣って演奏を控えめにしていたみぞれの「気配り」は見抜かれ、童話の解釈を見直すよう問いかけられました。そう、作中でもたびたび示唆されていますが「みぞれは演奏者として才能があり、希美は演奏者として一段劣る」というのが現実なのです。これが「切ない現実」の正体です。
そして、自身の拘束を解き放って会心の演奏を見せたみぞれ。しかし、今度は希美がその演奏力に嫉妬を隠せなくなります。「私が下手だからそれに合わせていたの?」と問いかけられることになり、二人の関係性は「リズ=希美」「青い鳥=みぞれ」へと変化していったのです。
この童話を用いた関係性の変遷は非常に凝って製作されており、同時に極めてリアリティのあるものに仕上がっています。高校生・女子・友人・楽器演奏者など、さまざまな立場から生じる「矛盾」や「エゴイズム」などがありありと描き出され、静かで美しい世界観と人間のどす黒い部分がありありと対比されています。
そのため、大きな事件やイベントを意図的に省略しているにもかかわらず、我々視聴者の心にはズシリと重いものが残ります。当然彼女たちの内面は完璧ではなく、人によっては「小さなことを気にしすぎ」と感じるかもしれません。しかし、果たして我々が周囲と構築している関係性に、彼女たちが抱えるジレンマが潜んでいないと言い切れるでしょうか。
【考察】ラストシーンはどのような意味を象徴しているのか

今作は大きな事件・イベントがないため、ラストシーンも比較的唐突に訪れます。みぞれと希美は同じ道に進まないという決断をし、希美は「青い鳥」を解き放ちました。こうして音大の進学を目指すみぞれは練習に、希美は一般受験に向けた勉強をしている様子が映し出されます。
また、みぞれの「希美の全てが好き」という告白に対して、希美は「みぞれの『オーボエ』が好き」という言葉で彼女を突き放すのです。この部分を「冷たいのではないか」と思う方もいるかもしれませんが、個人的にこの発言は「鳥籠の檻を解き放つ」ための重要なファクターとして機能しており、あえて冷めた言い回しをさせることで二人の関係性を決定づけていたように感じます。
そして、解釈が難しい最後のシーンに入ります。映画冒頭と同様に二人で学校を出るのぞみと希美。一見同じような光景ですが、我々は二人の関係性が大きく変わっていることを知っているわけで、やはり見え方が全く異なります。その後、下校中に前を歩く希美が振り返り、何かを口にしたのでしょう。のぞみははっとした表情を浮かべ、喜びの感情が示唆されています。
このシーンは多くが謎に包まれているため、「最後にみぞれは何といったのか」あるいは「本作はハッピーエンドなのか」という点が考察の対象となりました。もちろん多くを語らないというのは意図的に謎を残すために設計されていると考えられ、答えは出ないでしょうが筆者なりの解釈を行ってみたいと思います。
まず、希美の発言に関しては消去法で考えていくのが無難なように感じます。のぞみが喜びの表情を浮かべているので、彼女にとってうれしい言葉以外は考えられない、「オーボエが好き」という「完全に受け入れる」でも「完全に突き放す」でもない「50%」の回答を事前にしている…などです。
これらの要素を統合して考えると、筆者としては「これからもよろしくね」というような今後の関係性を示唆するような言葉ではないかと考えています。確かに、みぞれの全てを受け入れることはできません。しかし、そういう一面があってもみぞれを認め好きでいるのは事実だと思います。今作は学校を一度も出ないという構成が練られていて、これは学校を「鳥籠」に見立てているためだ、と監督の山田尚子は語りました。
つまり、鳥籠を抜け出した二人が未来を見据えた発言をするのが最も妥当なように感じ、仮にこの推論が的を射ていれば今作は「ハッピーエンド」と表現できるでしょう。
【解説】単なる百合ではない「人間らしさ」を描き出した作品

本シリーズは、一見すると「百合」を押し出した作品と捉えられがちです。実際、今作でいうところのみぞれのように、「同性愛的」な嗜好を示唆するような演出もありますし、男性キャラよりも女性キャラのほうが登場数・比率も高いためでしょう。
しかし、よく作品を眺めていると、いわゆる「百合もの作品」とは一線を画すことがよくわかります。近年流行しているそれらの作品は、男女の恋愛を描くことによりメインの客層である男性ファンを遠ざけたくないという意図が透けて見えます。そのため、良くも悪くも無味乾燥な作品に終始することも多く、不自然なまでに男性が登場しないことへの違和感もぬぐえません。
そうした作品と比べると、今作は明らかに一線を画します。実際、極めて静かに流れる物語と、「語らずに動きやしぐさで物語を表現する」という日常にクローズアップした技法と対照的に、これでもかと言うほど人間という存在のジレンマやエゴを描き出していました。
そこには「大衆受け」を意識した要素が極力排されており、どうしても軽蔑されがちなアニメという表現技法でリアリズムに挑戦する意欲が垣間見えます。みぞれに見られるような「同性愛的」な嗜好は作品の本質を表しているとは言い難く、みぞれの嗜好は「希美」ではなく「依存先」であると表現した方がよいでしょう。実際、みぞれは希美を愛していると思い込んでいるだけで、「希美の偶像」を愛しているようにさえ感じられます。
つまり、みぞれが「偶像」の崩壊により真実の希美と対面すると同時に、依存からの脱却を達成するというのが今作の根本的な構成なのです。これは「切ない真実」に直面したみぞれの成長物語とも表現できるでしょう。
一方、希美はのぞみという「一番近くの越えられない壁」とどのように対峙するかを迫られることになります。そこで彼女は「壁を乗り越えるのではなく受け入れる」という選択をしました。これは「逃げ」という見方をされることもあるかもしれませんが、大多数の人間は何かから逃げることで人生を生きています。ましてや身近に自分を明確に上回る人物がいるのですから、希美の諦めも十分に納得ができるものです。
今作は「のぞみと希美の恋物語」のような体裁を取りつつ、作品の中身は「お互いの欠点をさらけ出し、それを乗り越える物語」であると表現できます。この部分に関してはスピンオフといえどもシリーズ全体と共通するところであり、ユーフォらしさがよく出ていると感じました。
【解説】「最高の映画」と「つまらない」という評価が両立するほど好みが分かれる映画

ここまで書いてきたように、今作は「静」の部分に徹底的にこだわった意欲作にして良作であると筆者は考えています。もちろん同じように今作を支持するファンも多く、各種レビューサイトにおいて「何度も劇場に足を運んだ」という声がしばしば散見されます。
一方で「退屈な映画」「つまらない」という声が少なくないのも事実で、実際に興行収入という観点ではあまり芳しい数字を残せていません。
そのため、今作は非常に好みが分かれる映画であるといえます。やはり実験的な手法が随所に採用されていることや、良くも悪くも「意図的にわかりづらく製作されている」点が賛否両論に繋がっているのでしょう。また、張られている伏線やちょっとした視線や動作などの細かな点にも気を使っている映画であるため、リピーターや細かな点を考察するのが好きな方には向いている映画でしょう。
しかし、その一方で大きな事件や目を見張るような激しい演出があるタイプの映画でもなければ、どんでん返しがあるということもありません。そのため、普段ハリウッドなどの大作で展開されるような激しい演出や、終盤に大どんでん返しがあるタイプの衝撃的な作品が好みの方にはあまり合わない映画であるともいえます。
ただし、繰り返しにはなりますが単なる実験的な映画に留まらず、実験的な手法を独立した作品の魅力という部分に上手く繋げている映画です。そのため、初回の視聴で「あまり合わなかった…」という方でも、みぞれと希美の関係性を把握したうえで再度腰を据えて視聴してみると映画の良さが分かってくるかもしれません。
全体をまとめてみると、映画としてのつくりが非常に「玄人好み」に仕立て上げられているように感じました。そのため、筆者としては興行収入が伸び悩んだのもある意味当然のような気がします。
ただ単に大衆受けを意識した映画を作れば売り上げの見込めるタイトルであっただけに、京アニという製作会社がその点を度外視してでも、クオリティや実験的手法を追求した意欲作であると表現できます。
(Written by とーじん)
みぞれをのぞみと書き間違えすぎ
「みぞれのオーボエが好き」
は、
「希美のフルートが好き」
とは、決して云ってはくれなかったことへの、深い哀しみ、だと思っています。