映画『未来のミライ』は、日本でも有数のアニメーション作家として知られている細田守監督が手掛けた劇場公開作品です。細田監督といえば『時をかける少女』や『サマーウォーズ』でその実力を証明しており、ファンの期待も高かった作品といえるでしょう。
しかし、4歳の男の子とミライが出会って冒険譚を繰り広げていく、と予想されていたストーリーは、むなしくもその予想を大きく裏切ったものとなっていまいます。
さらに、公開前から懸念されていた細田監督の「趣味」が全開になった映画と表現することもでき、結論から言えば本作への評価は手厳しいものにならざるを得ません。
今回はそんな『未来のミライ』の個人的な感想や考察を書いていきます!なお、ネタバレには注意してください。
目次
映画『未来のミライ』を観て学んだこと・感じたこと
・4歳の男の子はこれほど憎たらしいのか、というのを実感
・細田監督ワールドが展開されるも、観客は置き去りに…
・広告宣伝と映画内容の乖離も問題か
映画『未来のミライ』の基本情報
公開日 | 2018年7月20日 |
監督 | 細田守 |
脚本 | 細田守 |
出演者 | くんちゃん(上白石萌歌) ミライちゃん(黒木華・本渡楓) おとうさん(星野源)、おかあさん(麻生久美子) ゆっこ(吉原光夫) |
映画『未来のミライ』のあらすじ・内容
出産を終え、経過観察を済ませたおかあさんがようやく家へと戻ってきました。
くんちゃんは初めて見る妹に興味を示すと、おかあさんと「妹の面倒を見る」という約束を交わします。
しかし、おかあさんとおとうさんはまだ幼い「未来」という妹の育児にかかりきりになり、くんちゃんは言いようのない嫉妬を覚えるようになりました。
そのせいもあり、くんちゃんは未来にささいな嫌がらせを行ない、おかあさんに叱られてしまうのです。それに反発してさらなるいたずらを行なうと、重ねて怒られることになるという悪循環に陥ってしまいました。
幼いながらに空虚な気持ちを抱えていたくんちゃんですが、ある日奇妙な男に出会います。そこから、くんちゃんは不思議な体験をしていくことになるのです。
映画『未来のミライ』のネタバレ感想
くんちゃんが感じる嫉妬とその表現力に関しては見事なもの
まず、本作で評価できる点から先んじて触れていくことにします。細田監督が常々テーマにしている「家族」という部分の、「妹ができて放置されてしまう幼い兄」に関する一連の設定や描き方にはリアリティがあり、良い意味で「こんなにウザかったのかな」と感じられるようになっている点は評価するべきでしょう。
特に、「長男」としてこれまで一身に家族の愛を受けていた立場のくんちゃんが、妹ができたとたん放置されている(と本人は感じる)というのは、個人的に身に覚えがありとても共感できる部分でした。
筆者も同じような立場の長男であり、母から聞いた話では昔とてもやんちゃだったそうです。しかし、3歳の頃に次男(弟)が生まれ、本作と同様に家族や親戚が弟にかかりきりになってしまったと話していました。すると、筆者はだんだん「兄としての自覚」を持つようになったのか、やんちゃさが鳴りを潜め大人らしくなっていった、ということを経験していたようです。
これはまさしく本作のテーマとする「長男の嫉妬と成長」に相当する部分であり、実際に経験していたらしい筆者の話と総合するととてもリアリティのある内容に仕上がっています。そして、鑑賞してみて「くんちゃん鬱陶しいな…」と思ったわけですが、これはつまり幼いころの自分が母親に対してかけていた迷惑を客観的に見てそう感じたのだと思うのです。つまり、一連の描写にはリアリティがあると同時に、子どもだけでなく育児を経験したことのある方には共感できる点も多いのではないかと思います。
また、このような心理設定だけが良く出来ているのではなく、くんちゃんという4歳児の行動がアニメーションの面で大変良く描けているとも感じます。わがままを言い、周りを困らせている様子は本当に手のかかる子どもを見ているようで、育児や保育の大変さを身に染みて感じることができるのです。
ただし、あらかじめ断っておくと、この「子どもに関するリアリティ」は確かによくできているのですが、その一方でむしろ「よくできていることが作品の面白さを損なっている」という点があるのは否めません。文中でも何度か触れていますが、作中におけるくんちゃんはひたすらに腹立たしいのです。それが「リアル」といえばそれまでなのですが、全然成長を見せてくれないので、視聴者はただ苛立ちを募らせるばかりという構成になってしまっています。
くんちゃんの声に言いようのない違和感があり、声優の配役ミスは否めない
本作が「子どもの心理と行動」を良く描けているという点については解説を加えましたが、その印象を損なってしまうマイナス要素があったことにも触れておかなければなりません。それは、「4歳児」という設定と合致していないように感じられる、くんちゃん役を務めた上白石さんによる演技でしょう。
筆者も鑑賞中に「ずいぶん声に違和感があるなあ」という印象を抱いていましたが、ネット上でも同様の意見が多数噴出している様子でした。そのため、個人的な感覚だけでなくある程度共通した認識なのでしょう。
配役されていた上白石さんについて詳しいことは知らなかったのですが、基本的にはモデルや女優として活躍されていらっしゃるようです。つまり、端的に言ってしまえば「タレント声優」ということになり、声の演技については慣れない部分が多かったのでしょう。もちろん演技力そのものを擁護するわけではないのですが、それならば仕方ないという面もあります。
しかし、本作のキャスティングに関するインタビューを読んでいくと、このキャスティングにはある裏話が存在するということがわかってきました。上白石さんは、当初くんちゃん役ではなく妹のミライ役としてオーディションを受けていたようです。そこで演技を耳にした細田監督が「くんちゃんの声に相応しい」という鶴の一声で彼女の配役を決めたと、少なくとも文面からはそう読み取れました。
つまり、「声のミスマッチ」は声優だけの責任ではなく、そもそも独断によって配役を変更した監督にもあるように思うのです。確かに、声優に慣れていなければミライ役であったとしても多少の不満は噴出したのかもしれませんが、ただでさえ不慣れな声優に性別も年齢も大きく離れている幼児の役を任せれば、それは視聴者に感づかれてしまっても仕方ないでしょう。
正直、そもそもタレント声優の起用に懐疑的なスタンスでいるのは自覚しており、それゆえに評価が手厳しくなってしまっているのは否めません。しかし、本作内でも星野源などに関しては上々の演技を見せており、同じタレントであっても演技力には大きな差があるといえるでしょう。
宣伝上の都合やスポンサー集めなどを考えると、どうしても人気タレントを起用しなければならないという事情を知らないわけではないのですが、同じタレントを起用するのでもせめて演技に定評のあるキャストを配置してほしかったものです。ただでさえ生意気な幼児の役という難しいポジションなのですから。
【解説】細田監督の「ケモナー」性癖がやや不快に感じられる
本作の公開前、PVなどが公開された時点からSNSを中心にとある噂がささやかれていました。それは、細田監督の好むとある「性癖」が、以前にもまして全開になっているということです。もともと、「オオカミこども」などの作品でもわかるように、細田監督が「ケモノ×子ども」の組み合わせを好んでいるのはある種共通の認識でした。
その部分が、本作ではさらに「エグい」形で表出してしまっているのです。作中で、くんちゃんが犬のしっぽのようなものをお尻に装着すると、突如として獣化してしまうというワンシーンは、見ていてちょっと引いてしまうものでもありました。
もちろん、監督の性癖が全開になってしまう映画は決して少なくなく、近年で言えば『君の名は。』などもその一種になります。新海作品の特徴として、「年上のサブヒロインが頻繁に登場する」というものが有名ですし、さらに同作でいえば「トランスセクシャル」の要素もフェチの世界に入ってくるものです。
しかし、例に出した『君の名は。』と本作の違いは「作中で必然性が描けているか」という点にあるのではないでしょうか。『君の名は。』ではよく見ていくと新海監督の性癖が出てしまっている箇所は少なくありませんが、その部分が作品を成り立たせるのに必要な要素と合致、あるいはそう見えるように擬態されており、一見してその不自然さに気づくのは容易なことではありません。瀧と三葉が入れ替わってしまうのも、作品を見ていくうちに「この作品には必要な要素だった」ということを納得できるようになっています。
一方で、本作における「獣化」シーンは、作品の文脈上その必要性がよくわかりません。シーンとしてもやや唐突に出てきますし、その後の展開を踏まえても「どうして獣化する必要があったのか」という点がやはり全く分かりません。
このあたりをまとめていくと、映画に性癖を出すことそれ自体が問題ではないことが理解できると思います。細田監督と新海監督の決定的な違いは、性癖の部分を「作品に必要な要素」として消化できているかどうかにあり、それができていなかったがゆえに、「細田監督が性癖を全開にしている…」という不快感に繋がってしまったのではないでしょうか。
【解説】物語的な魅力の低下は細田監督の「限界」を示しているのでは?
上記でも少しだけ述べることになったかと思いますが、端的に言って本作のストーリー面はイマイチ面白くありません。確かに、細田監督らしいつかみどころのないフワフワした物語の構成は、ハマる方にはハマる可能性はあります。しかし、筆者から見た率直な感想としては「物語が散らかりすぎて作品に没頭できない」というのが正直なところです。
そもそも、本作を見る前に皆さんが感じるであろう印象は「くんちゃんとミライが出会って成長していく」というものだと思います。結論から言えば、この要素が全くないとは言わないものの、映画のメイントピックと判定するにはあまりにも尺が短すぎです。中でも特筆するべきは「未来のミライ」の出番が非常に少ないことで、映画内における主役とはとても言えません。この部分は後ほど詳しくツッコミますが、ハッキリ言って「嫌なタイプのどんでん返し」に遭ったような気分になりました。
さらに、物語全体も「短編集をツギハギしている」というようなつながりの薄い内容になっており、加えて登場人物が極めて説明的な口調で物語を「語る」場面が多く目につきます。これでは脚本としてあまり出来がいいとは言えず、色々な意味で期待を裏切られたような気持ちになっている視聴者の方も少なくはないでしょう。
この「脚本」に関しては、近年になって細田映画の悪化しているポイントと言えるのではないでしょうか。その理由として、『時をかける少女』などで脚本を担当していた奥寺佐渡子が近年は脚本にクレジットされなくなり、細田監督自らがそれを担当するようになったことが原因として考えられます。
ここで言えることとして、細田監督には宮崎駿監督のような「マルチクリエイター」としての才覚は備わっていないというのが実情なのでしょう。確かに、アニメーターや演出家としてはセンスが光っているのかもしれませんが、彼らのように映画の全てを作り上げられるマルチクリエイターではなかったのでしょう。
もちろん、この芸当ができないからといって細田監督の評価が落ちるとは思っていません。そもそも、アニメーションの製作スタッフが細分化しているのは各所にスペシャリストを配置するためで、脚本がイマイチなら優秀な脚本家に依頼すればいいだけなのです。あとはこの部分を細田監督が受け入れられるか、という問題が残されているとは思うのですが、個人的には監督がこれ以上脚本を書き続ける必要はないと感じています。
【評価】宣伝戦略・タイトルで「冒険譚」をうたっていることがそもそものミス
最後に本作の評価をまとめると、残念ながらお世辞にも良作とは言い難い出来に終始してしまっているといえるでしょう。子どもの世界や演出は非常によくできていたと思いますが、一方でエンタメ映画としてはストーリーの出来が悪く、それが作品の良さを大きく損なってしまっています。
これにはもちろん作品自体の出来も影響していると思うのですが、個人的にはそもそもの「宣伝」や「タイトル付け」の段階から本作のガタガタ感が生じているように思えてなりません。
まず、宣伝戦略にも大きな問題があると感じています。本作のPVやポスター、キャッチフレーズなどを見てみると、やはり「冒険譚」の色彩が非常に強く押し出されています。これは皆さんも認めるところだと思いますが、残念ながら映画の内容はくんちゃんが短編的な世界を何度か渡り歩く「ミニマム」な物語でした。
この時点で観客の期待と作品のカラーがずれてしまっていることはよくわかるでしょう。当然ながら本作を見に来た視聴者の期待は「ワクワクするような冒険を見る」ということで、宣伝の方向性からそれを誘導しているのです。しかし、ふたを開けて期待と全く異なるものを見せられては、賛否両論の声が大きくなって然るべきでしょう。
ただし、本作視聴の動機が「細田監督の大ファンだから」というものであれば話は変わってきます。本作は良くも悪くも「細田ワールド全開」であり、ともすれば「ついてこられない奴は置いていく」というようなメッセージさえ感じられるほど独善的な作品です。それでも、こうした作風を好むファンがいることは理解できますし、彼らしさを楽しむのであれば最適な作品かもしれません。
また、もう一つの致命的な問題点として「タイトルと映画の内容が一致していない」というものも指摘しておきます。皆さんもご存知のように、本作のタイトルは『未来のミライ』です。ここから連想されるものは、「ミライが主役級の働きをする」というものではないのでしょうか。
実際の「未来のミライ」は作中の一パートで出番を与えられるのみで、タイトルから連想されるような活躍はないのです。これもまた視聴者からすれば不満を抱いてしかるべきで、宣伝戦略上のミスは否めないでしょう。
まとめると、本作一番の問題点は『マニアにしか受けない映画の内容を、まるで一般受けするかのような形で宣伝してしまった』ということになるのでしょう。
もちろん、宣伝戦略を練るスタッフたちも、出てきた作品の中身から「こうするしかなかった」というのは分からないでもないですけどね。(Written by とーじん)