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映画『命みじかし、恋せよ乙女』ネタバレ感想・解説!樹木希林の遺作となった不思議なドイツ映画

【解説】タイトルは大正時代に由来するものの、映画内容とは異なるような…

映画『命みじかし、恋せよ乙女』は、日本を舞台としていながらドイツ人監督によって撮影された、ドイツ映画という日本公開作品にしては珍しいタイプの作品です。

正直、通常この形態の映画は日本公開されないのですが、本作は日本が生んだ大女優である樹木希林の遺作になったということで、恐らくその関係で公開が決定したのでしょう。

筆者としても「樹木希林の遺作」を見に行くという一点で劇場に向かいましたし、同じような動機で視聴された方も少なくないのではないでしょうか。

今回はそんな『命みじかし、恋せよ乙女』の個人的な感想や考察を書いていきます!なお、ネタバレには注意してください。

映画『命みじかし、恋せよ乙女』を観て学んだこと・感じたこと

・樹木希林の出番は多くないが、存在感は絶大
・ホラー要素もあり、タイトルの印象と映画の内容は異なる
・どちらかというと雰囲気重視の映画かも

映画『命みじかし、恋せよ乙女』の作品情報

公開日2019年8月16日(日本)
監督ドーリス・デリエ
脚本ドーリス・デリエ
出演者カール(ゴロ・オイラー)
ユウ(入月絢)
クラウス(フェリックス・アイトナー)
カロ(ビルギット・ミニヒマイアー)
ユウの祖母(樹木希林)

映画『命みじかし、恋せよ乙女』のあらすじ・内容

映画『命みじかし、恋せよ乙女』のあらすじ・内容

かつてはエリート銀行員として成功者の道を歩んでいたカールは、職を失いアルコールに溺れる日々を送っていました。

酒乱を極める彼は妻や娘にも見捨てられ、一人娘との面会だけを楽しみにしています。

しかし、そんな彼のもとを訪ねたのは父ルディと親しくしていた日本人女性のユウでした。彼女は「ルディの家を見たい」とカールに告げ、彼らはすでに空き家となっていた父の家を訪問します。

実家を訪れたカールは、そこで自分の少年時代に想いを馳せました。そこには、彼を苦しめてきた「魔物」や「霊」といった存在が生息していたのです。

苦々しい過去の記憶と対峙し、またユウという謎の女性にも惹かれていくカール。果たして、彼らの関係性はどのように変化していくのでしょうか。

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映画『命みじかし、恋せよ乙女』のネタバレ感想

【解説】ドイツ映画らしく、監督や制作背景、前作の存在など馴染みのない点も多い

【解説】ドイツ映画らしく、監督や制作背景、前作の存在など馴染みのない点も多い(C)2019 OLGA FILM GMBH, ROLIZE GMBH & CO. KG

まず、冒頭でも述べたように「本来であれば国内公開が見送られてもおかしくない作品」が本作なのであり、それゆえに我々が普段親しんでいる海外作品とは様相を異にする一面も少なくありません。そのため、先んじて本作の解説をしておかなければ感想にも触れられないということで、そちらから記載していきます。

この作品は、ドイツではそれなりの知名度を誇るドイツ人監督ドーリス・デリエが中心となって製作し、ドイツ国内での公開を主眼に置いたドイツ映画です。にもかかわらず日本が舞台となっている理由は、監督が日本を非常に気に入っており、その延長線上で舞台が選択されているためです。調べていくと過去にも日本を舞台にした映画を何本か撮影しているようで、我々にとっては親しみがなくとも監督にとってはお馴染みの舞台設定といえるでしょう。

また、「日本を舞台にした映画を何本か撮影している」という点にはさらなる続きがあり、どうやら日本では公開されなかった同監督映画の10年後を描いたのが本作らしいです。つまり、「樹木希林の遺作だから」という理由で本作を見に行った方の大半は、この事実を知らないまま映画鑑賞を余儀なくされたということになります。もっとも、「前作を見ていなければ内容が理解できない」ということはなかった気がしますが、また前作を見ていれば映画に対する印象が大きく変化したのかもしれません。

 

ちなみに、本作に出演している主演のカール役を務めたゴロ・オイラーという人物はドイツの俳優で、ユウ役を務めた入月絢はドイツを中心に活躍するバレエダンサーの方らしいです。この二人は前作から引き続き主役を務めているということで、やはり前作との関連性は強いのかもしれませんね。

とはいえ、我々がいきなり「ドイツ映画」を視聴するのは至難の業です。ハリウッド作品であれば頑張って聴き取りながら視聴することもできそうですが、流石にドイツ語で話されては完全にお手上げでしょう。そのため、前作が気になるという方も、ドイツ語を専門的に学んでいない場合は、視聴難易度が格段に上昇してしまうというのは事実です。

【解説】タイトルは大正時代に由来するものの、映画内容とは異なるような…

【解説】タイトルは大正時代に由来するものの、映画内容とは異なるような…(C)2019 OLGA FILM GMBH, ROLIZE GMBH & CO. KG

本作の概要についてはそれなりにご理解いただけたかと思いますが、続いて我々日本人にはお馴染みの「命みじかし、恋せよ乙女」というタイトルについて解説を加えていきたいと思います。もともと、この「標語」は、大正時代の流行歌「ゴンドラの唄」という歌の歌詞にある一節が、曲の流行とともに標語として流布していったことに端を発するものです。

この一節を引用した楽曲や映画は数多く存在しますが、本作に関連しそうなところでは日本映画界の巨匠・黒澤明が制作した映画『生きる』の主人公が、亡くなる直前にこの歌を口ずさんでいたシーンが分かりやすいでしょうか。

そして、黒澤映画は世界中で鑑賞され人気を博することになったため、恐らく本作の監督であるドーリス・デリエはここから影響を受けて本作のタイトルを決定したのでしょう。実際、この映画にはとにかくこの『生きる』という作品に代表される黒澤映画や、彼に並んで国際的知名度の高い小津安二郎の作品による影響が強く感じられます。

 

ただ、個人的な感想を言わせてもらえば、このタイトルが象徴するような「日本人のイメージする『命短し恋せよ乙女』的な映画」と、本作の中身に大きな溝を生み出してしまっている感は否めません。我々にとって「命短し恋せよ乙女」というタイトルの映画は、やはり「ボーイミーツガールもの」が連想されるのは間違いないですし、本作のような「黒沢的映画」はイメージしにくいでしょう。

実際、森見登美彦の小説でアニメ映画にもなった『夜は短し恋せよ乙女』という作品のような内容であればタイトルとの一致感も味わえるのですが、これでは本来ターゲットとすべき層と異なる観客が映画に訪れてしまいかねません。

内容については後述しますが「ホラー」や「心霊」といった超自然的・観念的な要素も多く、恋愛的な場面は決して多くないのです。恐らく、本作を計画するにあたって、監督が『生きる』という作品から絶大な影響を受け、作品を象徴するシーンである最終盤の「ゴンドラの唄」を口ずさむところからタイトルを拝借したという経緯は理解できます。ただ、このあたりはやはり「外国人の考える日本」と「我々の認識する日本」の文化的格差が生じてしまった結果なのかもしれませんね。

個人的には、こういう映画こそ内容にふさわしい邦題を別につけてもよかったのではないかと思いました。邦題という文化自体が「映画の内容から離れてしまっている」という理由で衰退しがちな昨今ですが、「こういう時に邦題が必要なのでは?」と、皮肉にも邦題否定派であった私も考えを改めるキッカケになってしまいました。

【解説】ホラーや生霊など、黒澤明や小津安二郎の作品を彷彿とさせる

【解説】ホラーや生霊など、黒澤明や小津安二郎の作品を彷彿とさせる(C)2019 OLGA FILM GMBH, ROLIZE GMBH & CO. KG

さて、ここまでに述べてきた内容から「タイトルと映画の内容が異なる」という点については認識していただけたのではないかと思われます。では、具体的にどのような映画の内容に仕上がっていたのか、そのあたりを解説していきましょう。

まず、主人公のカールは「霊的な存在」によってひどく心を苛まれ、そこで少年時代に経験した家族との確執を思い出すことになります。その後はユウとの関係性も上手くいかなくなり、カールは酒に酔って凍傷を負ってしまいました。しかし、その一件で険悪な関係にあった家族との仲が回復に向かうものの、凍傷によって傷ついた現実から逃れるようにユウのいる日本へと向かいます。そこでカールが知った事実は、ユウはすでにこの世を去っているという悲しい現実でした。

こうして内容を振り返っていくと、確かに「カールとユウの恋」が描かれていますし、「命短し~」というタイトルもあながち的外れではないと思われるかもしれません。ただ、あくまで映画が描き出したい本質的な面は「恋愛」でないような印象は否めないので、この内容ならばやはりもう少し異なるタイトルがふさわしいという感想は変わりません。

 

そして、この映画内容は「日本の古典作品」から非常に大きな影響を受けていることが理解できます。確かに、表面的には黒澤明や小津安二郎といった巨匠から影響を受けているのですが、彼らが映画で撮影している作品の元ネタを辿っていくと、『今昔物語集』や『雨月物語』など、日本の古典作品へと回帰していくのです。

つまり、本作はそうした古典作品を映画の世界に落とし込んだ日本映画界の巨匠たちの映画に似たところが非常に多いため、必然的に彼らの映画が好きな方には割と受け入れやすいようにも思えます。

一方、本作が外国映画だからといって、いわゆる「ハリウッド的」な分かりやすいエンタメや恋愛要素を求めてしまうと、間違いなく内容に不満が残ってしまうでしょう。とはいえ、タイトルこそ誤解を招きやすい一方で宣伝戦略自体は「樹木希林の遺作にして世界デビュー作」という点を推しているように思えたので、彼女の演技を見にくる方はあまりハリウッド的なものを好まないでしょうから、その点についてはそれほど心配いらないのかもしれませんね。

樹木希林はラストしか出番がないものの、存在感は流石の一言

樹木希林はラストしか出番がないものの、存在感は流石の一言(C)2019 OLGA FILM GMBH, ROLIZE GMBH & CO. KG

ここまで、映画の内容についてはおおよその説明ができたのではないかと思われます。そこで、いよいよ大半の方が楽しみにされていたであろう「樹木希林の出番」について、感想を書いていきましょう。

まず、先に残念な点を挙げてしまうと「彼女の出番が非常に少ない」という点は否めません。宣伝では「樹木希林の遺作」ということをかなり打ち出していたにも関わらず、出番そのものはラスト15分程度しか用意されていないのです。それは先ほど説明した場面でいえばカールが日本に来てユウを探している過程からすべてのネタバラシまでの間に出番がありますが、本作は基本的にドイツでのシーンが作品の大半を占めています。やはり彼女の演技を楽しみにしていた筆者にとっては「出番全然ないじゃん…」と思わされてしまったのも事実でした。

しかし、その短い出番において彼女は非常に重要な役どころを演じており、またその演技も見事なものでした。ユウの祖母としてカールに真実を告げるという役割を果たした樹木希林ですが、彼女はなかなかカールに真実を告げようとせず、のらりくらりと彼の追及をかわしていきます。それでも食い下がるカールに対し「ユウの母(彼女にとっての娘)が死に、その母を追ってユウもこの世を去っている」と告げると、「生きているのだから」と人生に絶望しているカールを励まします。

 

こうした「不幸に見舞われながらも気丈に生きている年配の女性」を演じる樹木希林はもともと非常に雰囲気を演出するのが上手で、個人的に『万引き家族』で家族の精神的および金銭的な支えとなっていた柴田初枝役を務めた彼女の姿が非常に印象に残っています。家族は犯罪で生計を立てる「底辺家庭」でしたが、初枝が全面に出ていくわけではないものの家族の中で非常に大きな存在感を発揮しており、その印象を演技で表現していく彼女の技量は流石というほかありませんでした。

その点では、本作においても出番こそ少ないものの、確かに作中でも随一の存在感を発揮しているようにも思えました。どことなくミステリアスながら一枚上手にいるような独特の感覚は、遺作であっても健在であったということでしょう。

このあたりに関しては、もはや単なる演技というよりも「彼女の生き様」が自然とそういう雰囲気を発していたのではないかと思えるほどです。自然体がそもそも魅力的な女優であっただけに、替えの利かない人物であったことを実感します。

改めまして、彼女のご冥福をお祈りいたします。

【評価】雰囲気や画の美しさは高評価も、内容は観念的で賛否が分かれるか

この映画の評価は、非常に難しいところがあるのは否めません。まず第一に前作に相当する映画の内容を抑えられていないという点で、例えばドイツ本国でこの映画を鑑賞した方とは異なる感想を抱きかねないからです。さらに、「日本的な価値観を海外の監督が描いた作品」ということも評価を難しくしており、判断に困るというのが正直なところです。

まず、良かった点は映画全体を構成する「雰囲気」や「画の美しさ」が挙げられるでしょう。個人的にこうした「超自然的な作品」というのが好みということもありますが、言葉で多くを語るのではなく、演出や演技でそれを表現しようとする芸術性の高さは褒めるべき点だと思います。

 

また、樹木希林だけでなく幻想的な世界を作り出す俳優陣の演技も作品のカラーによく馴染んでおり、映画全体としての雰囲気作りはよくできていたように思えます。

ただ、一方で観念的すぎるあまり「映画の主題」や「ストーリー」が非常にわかりづらく、そういった点を楽しみながら作品を楽しみたい方にとっては、なかなか受け入れがたい作品かもしれません。映画の内容は「理解する」ことよりも「鑑賞する」こと自体に重きが置かれているように思えましたし、一から十まで合理的な説明がなされることを好む場合は納得がいかない点も多々あるでしょう。

こうした点をまとめていくと、個人的にはそれなりに楽しめた映画であったようにも感じました。しかし、先ほどから何度か述べているように「この映画を楽しめる人は黒澤や小津の映画が気に入るはず」ということは事実で、これは転じて「彼らから強烈な影響を受けていることがハッキリしすぎている」ということも否めないのです。どういうことかというと、個人的には「黒澤映画と小津映画を足して三で割ったような映画」と感じてしまい、あまり本作ならではのオリジナリティを見出すとこができなかったということです。

個人的に彼らの映画はその大半を鑑賞するくらいには好きで、そのために本作も同じような系統にある以上、嫌いなはずはないのです。しかし、それはつまり「既視感が否めない」ということも意味しており、本作を鑑賞するうえで極めて難しい点となってしまっています。

したがって、本作は「黒澤・小津映画が好きな人は気に入りやすい」一方で、「黒澤・小津映画が好きな人には彼らの『劣化コピー』的な印象を受けがち」な映画と表現できるでしょう。一応舞台そのものはドイツに変わっているのですが、根本的な命題にもう一ひねりが欲しかったところです。

(Written by とーじん)

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