映画『スタンド・バイ・ミー』は、1986年に制作されたアメリカ映画で、ゴールデングローブ賞(作品賞と監督賞)などを受賞した映画です。
インターネット上でも、個人のおすすめ映画として評価している書き込みをよく目にするので、日本でもこの映画のファンは多い印象です。中学にあがる直前の、12歳の少年たちの連帯を描いていて、自分の楽しい少年時代を思い出し、胸にグッときた素晴らしい映画でした。
今回は映画『スタンド・バイ・ミー』の、ネタバレを含む個人的な感想や解説、考察を書いていきたいと思います!
目次
映画「スタンド・バイ・ミー」を観て学んだ事・感じた事
・ギャング・エイジ特有の友人との連帯感
・人生の一番楽しかった時期への郷愁
・少年期の終わりと旅立ち
映画「スタンド・バイ・ミー」の作品情報
公開日 | 1986年 |
監督 | ロブ・ライナー |
脚本 | ブルース・A・エヴァンス レイノルド・ギデオン |
音楽 | ジャック・ニッチェ |
出演者 | ウィル・ウィートン(少年期のゴーディ) リバー・フェニックス(クリス) ジェリー・オコンネル(バーン) コリー・フェルドマン(テディ) キーファー・サザーランド(エース) |
映画「スタンド・バイ・ミー」のあらすじ・内容

1959年、アメリカ合衆国のオレゴン州にある小さな田舎町にある樹の上に、子どもたちの作った秘密の小屋がありました。
その小屋の中では数人の少年が雑誌を読み、たばこを吸い、トランプで賭け事をやっています。少し不良っぽい彼らは、もうすぐ小学校を卒業しようかという年頃の気の合う仲間でした。
そこへ、仲間の一人であるバーンが、死体を見つけたという噂話を聞きつけて、あわてて小屋に飛び込んできます。
死体を見てみたいという好奇心、そして発見者になったら新聞やテレビに出てヒーローになれるのではないかという妄想を抱いて、彼らは線路づたいに、泊りがけの冒険に出る事にしました。
映画「スタンド・バイ・ミー」のネタバレ感想
ギャング・エイジ特有の友人との幸福な連帯感、友情に満ちあふれた映画!

先日、深夜にテレビを観ていると「クレイジー・ジャーニー」という番組の中で、女優の小池栄子さんが「小学生の時がすべてだった」と言っていました。
あの時以上の多幸感を超えるものは人生になかったという意味での発言でしたが、実に共感を覚える言葉でした。そんな少年期の多幸感をリアルに思い出させてくれた映画が、「スタンド・バイ・ミー」です。少年期の楽しさや友人との連帯感をここまで表現できた映画で、これ以上のものは他にありません。
この映画で描かれる少年は、親や先生の庇護を受ける時期の少年ではなく、自分たちで考え判断し、仲間を作り、もうすぐ青年期をむかえる時期の少年たちです。男か女か、またどういう国のどういう集団にいたか、そういうもので多少は違うでしょうが、9歳から12歳ぐらいまでの間の友達や仲間の連帯感って、特別だったと思いませんか?
僕が持っている発達心理学の本では、学校から帰るとすぐに出かけて仲間たちと集まって遊ぶ集団をギャング集団、この時期をキャング・エイジと名づけていました(『よくわかる発達心理学』林洋一監修、ナツメ社)。
ギャングというと、アル・カポネなどのアメリカの犯罪組織を思い浮かべてしまいますが、元々は「仲間」という意味があるそうです。この時期の友情って、打算や利害関係があるわけではないので、まさに掛け値なしです。その楽しさは、人生の中でも別格のものです。親や大人を信頼して保護されている幼年期から脱して、「いい」とか「楽しい」と思うものを自分で選んで、仲間と共有する最初の時期です。
また、児童期の最後にあるギャング・エイジを過ぎた、第2次性徴(男子ならひげが生えて声変わりもして精通もするころ、女子なら胸が出てきて初経をむかえるころ)を伴う青年期の喜びや苦悩とも、また違った感覚です。
【解説】少年の行動の描写が見事

そんなギャング・エイジの頃の感覚って、僕の場合は「もの」や「ひと」は覚えているんですが、それ以外のものはよく思い出せません。ずっと昔、自分や友人がどんなふうに振舞っていたかなんて、なかなか思い出せませんよね。ところがこの映画は、そういう部分の描写が実に細かく、「ああ、こんなだったよな」と思い出させてくれて、見ていて懐かしくなってしまいました。
たとえば、冒頭のシーンです。少年4人は木の上に小屋を作って、そこに隠れてタバコを吸い、ラジオをかけ、雑誌を読み、トランプをしてお金をかけて遊んでいます。そして、一人がキザな言い回しをすると、他の友人たちが目を合わせて笑います。青年期や大人になると、こういう時には相手に気をつかって笑わなかったり、笑うにしても多少の気遣いをするものですが、この時期は容赦しないんですよね。
でも、悪意があるわけでなく、その時にさんざん笑い飛ばして終わり。後をひきません。そういう変に気を使わない感じが「ああ、こんなだったよな」と、あの時期をリアルに思い出させてくれました。
次のシーンも同様です。仲間の一人が、死体があるという情報を聞きつけ、みなでそこまで行って、発見者として新聞やテレビに映ってヒーローになろうと盛り上がります。泊りがけの冒険です。そこで、リーダー格のクリス(リバー・フェニックス)は、親の机から拳銃を拝借してきます。
弾は抜いてあると思って、友人である主人公のゴーディ(ウィル・ウィートン)に見せます。感動したゴーディは、撃つ真似をして引き金を引きますが、なんとたまが銃の中に1発残っていて、バーン!面食らったふたりは走ってその場を逃げますが、逃げながらクリスは「あっはっは、ゴーディが町で銃を乱射した!」といってゴーディをからかいながら大受け。こういう時も、変に気を使わずにあっけらかんとしてるんですよね。
少年時代って確かにこんな感じだったし、また少年時代のあの「あれがすべてだった」という、何もかも楽しくて新鮮な感覚って、感じたままに自分を出す事が出来ていた事なのかも知れないと、この映画を観て感じました。笑う時も笑われる時も、掛け値なしのありのままで、腹の底から笑う事が出来ていたんでしょうね。
エースの恐怖…。子どもの頃、友だちのお兄さんほど怖いものはなかったよね

この映画の少年時代のリアルな描写は甘いものだけでなく、酸いものも描かれていて秀逸でした。その一つが「友達のお兄さんほど怖いものはない」という事です。
死体を見つけに行くたびに出る直前、主人公ゴーディは、ニューヨーク・ヤンキースの帽子を、親友クリスのお兄さんの友人である不良エース(キーファー・サザーランド)に取られてしまいます。返せというものの返してもらえません。クリスに至っては抗議しただけで根性焼きを入れられそうになり、屈辱的に謝らされてしまいます。少年時代のお兄さん世代って、恐怖の対象だったなぁと思い出しました。
学校だと同学年以外のお兄さんと接触する機会はほとんどありません。でも、放課後となると、友だちの家に遊びに行けばいじわるでおっかないお兄さんがいたりして、まれに接点が生まれてしまうんですよね。親や先生に保護されていた幼年期と違って、少年期には恐怖の対象の「先輩」や「お兄さん」が出てくるのです。これもこの映画を観るまで、まったく忘れていたものでした。本当に描写が見事です。
クリスを演じた夭折の俳優、リバー・フェニックスの魅力

そして、いよいよ死体探しに出ていく4人の少年ですが、目をひいたのは、主役ゴーディ役を務めたウィル・ウィートンではなく、リーダー格のクリスを演じたリバー・フェニックスでした。
クリスの役柄は12歳でしたが、それを演じたリバーは当時15〜16歳。その年齢とは思えないほどに精悍な顔つきで、子供じみた甘えを感じさせず、大人が観ても魅力を感じる存在感でした。この映画を観て、クリスに惹きつけられた人って多いのではないでしょうか。
あの精悍さは、リバー・フェニックスの生い立ちそのものにあるようです。彼の両親は、ヒッピーが多く入信したカルト系新宗教「神の子供たち」に入信しており、セックスを奨励するその教義から、リバーも4歳で初体験をしたそうです。
また、家が貧しかったことから、子どもの頃から妹と一緒に路上パフォーマンスをして小銭を稼いでいたそうです。リバーは普通の15歳が見た事もないものを目に焼き付けながら育ったのですね。なるほど、他の子役とはまったく違う雰囲気をかもし出しているのは、経験も精神的な成熟も、実際に早かったという事なのかも知れません。
ちなみに、リバー・フェニックスは23歳で麻薬の過剰摂取による心不全で他界しています。この映画でこれほどの素晴らしい演技をしていながら、出演作品が少ないのは、はやく天に召されてしまったからなのですね。
【考察】線路を歩く旅のシーンは卒業の過程として描かれた冒険

そして、4人はいよいよ冒険に出ます。この冒険は楽しく描かれているというよりも、人生最高の時期の親友たちと過ごす夏休みから、その時期を卒業していく過程として描かれているように感じました。
冒険の序盤でナレーションが入ります。「両親にウソをつき、ハーロウへ行くのはたしかに冒険だが、それだけではない。すべてがそこにはあった。」冒険の最初には、たしかにギャング・エイジの幸福感に満たされたものでした。
しかし、冒険をして変化が起きていきます。冒険は汽車の線路づたいに行われるのですが、スタート地点は鉄橋です。橋や扉というのは、西洋で使われる象徴の典型的なもので、別の世界への入り口を示すものですよね。この別の世界に踏み込むと、次第に「すべてがそこにあった」状態から変化していきます。友人たちとの信頼の強さと同時に、目前に迫っている少年期の終わりの予兆も見え始めます。
主人公のゴーディは有能だった兄と比較され、父から疎んじられています。そのゴーディの良さを、親友のクリスは理解しています。
「君のお父さんは何もわかっていない。兄さんで頭がいっぱいだ。」
主人公のゴーディは頭がよいので、進学組に行く事が出来ます。でもゴーディは友情を優先したくて、みなと同じ就職組に進みたいと言います。ところが親友のクリスは自分の人生を低く見るなと、ゴーディに進学組に進む事を勧めます。
一方で素行の悪い父と兄を持っているクリスは、自分は不良になるしかないと信じていて、就職組にしか行けないと思っています。しかし、親友のゴーディはクリスが頭の良い事を知っていて、一緒に進学組に進もうと勧めます。どちらも親や大人よりも、友人の方が深く理解してくれているのです。同時にもうすぐ少年期が終わり、人生の最初の分岐点を迎えています。
この旅は、少年期の過程を象徴したものではないでしょうか。
【解説】分岐する未来。原作小説は死亡した人、結末が違う?

ニュースを見ていると、不思議に思うことがあります。努力して大変な成果を上げた科学者のニュースの後に、凶悪な犯罪者が出てきた時、子どものころはみんな同じように学校のクラスにいたはずなのになと思ったりするのですよね。
この映画ではテディとバーンの二人は、クリスとゴーディとはまったく別の人生を歩む事になります。どちらもあまり学校の成績が良くなくて、就職組に進むのですが、これで気の合う仲間だったはずの4人の人生がまったく違う方向に分岐していくのです。少年期の終わり以降、進学組と就職組は、物理的にも精神的にも断絶してしまいます。こうした事で起こる友人との別れ、違う人生への分岐もやはり少年期の終わりなのですよね。
ちなみに、「スタンド・バイ・ミー」には原作小説があり、原作と映画ではテディとバーンの将来は違う描き方をされています。
映画では死んだのはクリスのみとなっていますが、原作小説では主人公ゴーディ以外の全員が死んでいます。テディは映画では一度刑務所に行った後に臨時雇いで働く未来を持っていますが、原作では仲間たちと一緒に飲酒運転で事故死。バーンは映画では高校卒業とともに結婚して製材所で働くと語られますが、原作ではパーティーに参加して焼死です。
もっとも楽しかった時代を笑い合って過ごした仲間の運命がこれだけ違う点に、はかない人生を感じさせるものでした。
【考察】銃を撃つという事が象徴するもの

この映画の独特の余韻は、「楽しかったあの時期」を描いた点にとどまらず、それが終わって卒業していく瞬間を描いたところにあるのではないかと思います。そこでも、序盤と同じように象徴が使われていました。
まず、死体を見つけた時のくだりです。ゴーディたちが死体を見つけますが、あとから来た「怖いお兄さんたち」のエースたちに、死体を横取りされそうになります。冒頭ではお兄さんたちの理不尽な要求をのんだゴーディとクリスですが、「橋を渡って」ここまでたどり着いた二人は、今度は理不尽な要求を撥ねつけ銃を撃ちます。この「銃」というものが、青年期の始まりの象徴であるように感じられました。
西洋ではよく象徴が用いられますが、銃は男性器を表現する事が多いです。例えば、ブルースという音楽には「俺の38が…」と、露骨に銃を性器として表現した歌詞があります(ちなみに38とは、銃の口径の事)。
いよいよ少年期も終わり、来年からは青年期に差し掛かり自分の人生の最初の選択を迫られている二人は、最後に自分の意志で銃を撃ったわけです。つまりこれは、第2次性徴の比喩であって、少年期の終わりを表現しているように感じました。
ちなみに、映画と小説ではエースへの発砲シーンが少し違います。映画で発砲するのは主人公のゴーディですが、小説では発砲はクリスが行います。この違いは、物語の狂言回しとして存在するゴーディの成長を鮮明化するために行われたという意味と、序盤で屈服させられたクリスと、橋を渡って自分で歩いてきたクリスを対比させたかったという意味があるのではないでしょうか。
そしてもう一つ、ゴーディに銃を撃たせる事で、クリスにひとつのセリフを言わせる事が可能になっています。
クリスのセリフは少年期の終わりを表す

クリスが言ったセリフとは、「おまえら車で来たんだろ」というものです。ここに、同じように連帯している「怖いお兄さんたち」のエースたちのギャングと、クリスやゴーディたちには違いがあります。
「おまえら車で来たんだろ」は、少年たちが死体を渡さない理由となっています。原作の小説では、このシーンの意味するところをさらに分かりやすく、以下のように表現しています。
「彼らは車でやってきた—それがわたしをなによりも激怒させた。」(『スタンド・バイ・ミー』スティーヴン・キング、山田順子訳、新潮文庫 290ページ)
これは、自分の足で歩いているという自立の象徴として機能しているセリフのように感じられました。橋を渡る前は「お兄さんたち」に屈服してきた少年たちですが、橋を渡り、自分の足で歩いた時点で少年期の卒業を迎えているのです。
【考察】クリスの死、ラストの透明になるシーンが意味しているもの

ゴーディにとって人生最高の時期であり、人生最高の友人であるクリスは、残念ながら大人になった後に死をむかえます。ところで、もし「人生でもっとも楽しかった少年時代を振り返る」事だけを描くのであれば、クリスを死なせる必要はあったでしょうか。あるいは、クリスが死ぬと、物語にどういった効果が生まれるのでしょうか。
この映画の冒険談のラスト、主人公がクリスと別れる際、クリスが透明になって消えていくシーンがありました。まるで幻のように消えていくのです。少年時代、クリスたちと過ごした楽しい日々はまぎれもない事実であり現実でした。でも、過ぎた後となっては、過去はこの映像のように幻のようなものです。それでもクリスがまだ生きていれば、あの頃と現在が続いているように思えます。
しかしクリスが死んでしまうと、あの頃の事ですらまるで幻であるように思えてくるし、あの頃から一貫して続いている自分の時間ですら、いずれ幻のように消えていくのではないかと思えてきました。
クリスの死によって、この映画のスケールは「過去から現在までのある時」というスケールから、「生まれてから死ぬまでの中のある時」というスケールに拡張されたのではないかと感じました。これがこの映画を単なる冒険談から、ライフレビューを振り返るという、ある種の死生観を扱ったものにしていたように思えます。
自分の一生と、その中で一番キラキラしていた時期を俯瞰してながめるような感覚です。クリスの死は、人生すべてを俯瞰する視点を与えたのではないでしょうか。
俯瞰視点で始まり、そして終わる物語
クリスのほかに、人生を俯瞰した上での少年時代という視点を与えられた理由が、この映画にはあると思います。そもそもこの映画は、最初のシーンから俯瞰視点にして作ってあるのです。
映画は大人になった主人公が、新聞を見て子どもの頃の親友が死んだことを知るシーンから始まり、過去を振り返る形で本編が展開されていきます。そして最後にまた大人になった時の自分に戻り、当時を振り返ったモノローグで幕を閉じます。
この映画は、最初から「12歳のあの頃を思い出す事」ような見え方になっているわけですよね。映画としてはプロローグ部分とエピローグ部分をカットしても成立するものだと思いますが、もしそうしていたらトム・ソーヤのような「ある子供の冒険談」で終わっていたのではないでしょうか。
ところが、「大人になった自分が12歳のころを振り返る」という俯瞰視点を与えた事で、観ている側にも、そうした視点が与えられたのだと思います。そしてそのモノローグが他人事とは思えず、まるで自分の為に用意された言葉のように胸に響きました。モノローグは以下のようなものです。
「あの12歳の時のような友達はもうできない もう二度と…」
人が死ぬ時に、何を思い出すだろうかと想像すると、まさにこういう事なのかも知れないと思わされジンときてしまいました。
主題歌「スタンド・バイ・ミー」の意味
そして、最後に流れる音楽が、この映画のヒットでリバイバルした50年代の名曲「スタンド・バイ・ミー」でした。最後のモノローグの後で、この曲のイントロのウッドベースのメロディが流れてきただけで、僕は涙が出てしまいました。曲も素晴らしいのですが、この映画にあったサウンドと歌詞なんですよね。
ある過去の時代を表現するときに、その時代の音楽を活用することは、映画ではよく用いられる手法です。ベトナム戦争の時代を描いた映画『地獄の黙示録』では、ドアーズやジミ・ヘンドリクスといったベトナム戦争混迷期に流行したサイケデリック・ロックが使われました。未来の世界を描いたブレードランナーでは、当時の最先端であった電子楽器が大いに活用されました。
そして、この映画の最後に流れた「スタンド・バイ・ミー」は、1962年にソウル歌手のベン・E・キングがヒットさせたナンバーで、もともとの歌詞はラブソングです。しかしこの映画の場合、その歌詞が少し違う意味に変容されています。この歌は時代を表しただけでなく、少年時代の友人との緊密さを表すという意味で持使われていたように感じました。
前置詞「by」は、ものすごく近くにある事を指していて、その近さは「near」よりさらに緊密です。この「by」の距離感が、この映画のすべてだと思います。ギャング・エイジの友人との親密な距離感が、この「by」にすべて込められていると思います。
輝かしい少年期を懐かしさだけでなく、ライフレビューから切り抜いた名作

というわけで、この映画は人生でもっとも輝かしく楽しい時期であっただろう少年期の追体験をすると同時に、いよいよその少年期を卒業する瞬間の余韻を感じさせてくれるものでした。
そしてそれが、映画の実質上の主人公であるクリスの死や俯瞰視点を与える事で、ライフレビューというより大きなスケールから人生を見つめさせてくれたところに、心を打たれました。
僕個人としては、80年代に作られたアメリカ映画の中で、間違いなくベスト3に入れたい素晴らしい映画、間違いなく名画と呼ぶ事の出来る作品だと思います!
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