映画『最後の追跡』はデヴィッド・マッケンジー監督による犯罪映画です。西部の雰囲気と謎を解いていく感覚がマッチした、隠れた秀作でした。
今回はそんな『最後の追跡』の個人的な感想やネタバレ解説、考察を書いていきます!
目次
映画「最後の追跡」を観て学んだ事・感じた事
・じわじわと変わっていく雰囲気が魅力
・奪うか奪われるかという原理に無常を感じる
・かなり出来はいいけどもう一味欲しかった
映画「最後の追跡」の作品情報
公開日 | 2016年8月12日(米国) 劇場未公開(日本) |
監督 | デヴィッド・マッケンジー |
脚本 | テイラー・シェリダン |
出演者 | ジェフ・ブリッジス(マーカス・ハミルトン) クリス・パイン(トビー・ハワード) ベン・フォスター(タナー・ハワード) ギル・バーミンガム(アルベルト・パーカー) |
映画「最後の追跡」のあらすじ・内容
テキサス州において、連続強盗事件が発生。少額しか狙わないため、FBIは動かず紙幣の追跡もできません。
そこで、テキサス・レンジャー:州公安局のマーカスとアルベルトに捜査のお鉢が回ってきました。
一方そのころ、犯人のハワード兄弟は着々と犯行を重ねていきます。二人の目的は親から継いだ牧場を維持することのようでしたが、テキサスの土地は価格が下落する一方で……。
兄弟の真の狙いは?レンジャーは二人を逮捕できるのでしょうか?
映画「最後の追跡」のネタバレ感想
クリス・パインが強盗になる映画
本作は、実質的な主人公(犯罪者側)をクリス・パインが演じています。パインというと『エージェント:ライアン』でジャック・ライアンを演じもしましたが、最も有名なのはJ・J・エイブラムス版『スター・トレック』シリーズの出演でしょう。主人公ジェームズ・T・カーク役を三度務め上げています。
四度目に関しては、三作目の脚本家が監督をやるとかクエンティン・タランティーノがR指定で作るとか言われてまだ不確かですが、いずれにしてもパインに続投して欲しいところです。
そんな彼が本作で与えられた役柄は、二人兄弟の銀行強盗の弟です。前科者の兄に対し計画の忠実な遂行を徹底させようとする彼は、カークというよりむしろスポックのようだったりします。
名目上の主人公(警察側)はジェフ・ブリッジスです。2009年(第82回)アカデミー賞主演男優賞を受賞した大ベテランですね。たびたびノミネートを受けている彼は、本作でも助演男優賞でノミネートを受けています。本作のポスターなどではブリッジズが最初に名前を挙げられがちですが、主演部門でないことからも、実質的にはクリス・パインが主人公と言っていいでしょう。
本当は原題も強盗寄り
本作の原題は “Hell or High Water” です。直訳すれば「地の底だろうが、満潮だろうが」といったところでしょう。より日本語に近しい言い回しというと、「雨が降ろうが槍が降ろうが」あたりになるでしょうか。何があろうとやってのけるという覚悟を示す言葉ですね。
そのような覚悟を持っているのは、警察側というよりむしろ強盗側です。特に後ろ盾もない、たった二人での犯罪ながら、目標金額に達するまで必ずやり抜くという意思が表れています。死者も出ていない、みみっちい金額しか奪おうとしない強盗に対し、警察が「雨が降っても槍が降っても逮捕してやる!」と思うとは考えにくいですからね。その点でもやはり実質的な主人公は強盗側であると言っていいと思います。
しかし、相変わらず邦題が味わいを損ねています。『最後の追跡』をしているのは定年直前のマーカス・ハミルトンであり、強盗側ではありません。確かに彼はこの事件の後引退するため、紛れもなく「最後」ではあります。
とはいえ、理論上の正しさとタイトルの相応しさは別問題です。まぎれもなく映画の顔となるタイトルに、主役をはき違えたような言葉をあてがうのは不適切としか思えません。加えて本作のラストはかなり余韻を含ませるものであり、本当に「最後」になるとは言い切れなかったりします。その意味でも、『最後の追跡』というのはあまり評価できたものではないと考えます。
【解説】西部の魂と貧困をミックスしている
本作は、形式的には犯罪映画と見なされがちです。強盗が主人公である分、そうなっても無理はありません。しかし実際に観てみると、必ずしも単なる犯罪映画だとは言い切れないものがあります。一口に「犯罪」というとかなりどこか大げさで、取り返しのつかないかのような雰囲気を持たせかねません。たくさんの人の命を奪ったりといったものですね。
しかし本作の強盗は非常にみみっちく、一件当たりの被害総額は一万ドルに届きません。百万円にも満たない額なので、FBIも動かないような有様です。違法行為であるのは間違いないのですが、犯罪映画というくくりにしていいのかは微妙なところです。
鑑賞を続けていても、「これは何の映画なんだ?」と不思議に思うことになるでしょう。西部劇のようになったかと思いきや、義賊ないしピカレスク的になったり……と、ストーリーの軸が少しずつ動いていきます。転換の巧みさゆえに不自然さはなく、終始飽きることなく結末を追いたくなっていきます。
この辺の軸のズラし方は、『ディーパンの闘い』などを彷彿とさせますね。難民の苦労を描いているのか、ニセモノの家族を描きたいのか、一つに留まらないながら惹きつけられる見せ方をしています。果たして最後に残るのは何なのか?ラストまでうまく運んでいくところは高く評価できますね。
以下からネタバレありです!
【ネタバレ】余韻の残る結末に心がざわつく
何件か強盗を成功させた後、二人はカジノへ行って儲けのほとんどをチップに換えます。かといって豪遊するわけではなく、兄はほんの少しだけポーカーで稼ぎ、弟はバーで軽く飲むだけで換金し直して店を出ます。札束は盗んでいないためマネーロンダリングの必要はなく、この地点では真意が掴めません。
翌日、兄弟の母親が借金のために牧場を抵当に出していたことが判明します。しかもあと数日のうちに借金を返さなければ、牧場は差し押さえになってしまうのです。二人は牧場を維持し、かつひどい条件で母親に契約を結ばせた銀行に復讐するため、強盗を思い立ちました。カジノで換金したのも、賭けに勝った金だと見せかけるためだったのです。
そのころ保安官の二人は、兄弟が犯行に及んだ銀行が「テキサス・ミッドランド銀行」の系列ばかりであることに気づきます。そのため、また別のテキサス・ミッドランド銀行支店に張り込むことにしました。そのころ強盗の弟は離婚した妻と息子の元へ行き、牧場を信託に託したことを告げます。妻たちの反応は芳しくありませんでしたが、実はこの牧場の地下に石油があることが明かされます。牛を育てろというのではなく、あくまで石油採掘場という財源を残すつもりというわけですね。
返済期限の前日、兄弟はまた金を奪うべく新たな銀行へと向かいます。しかし、なんとこの店は休業していました。目標金額に満たないことを悟った二人は、予定を変更してまったく下調べをしていない支店を襲うことに決めます。そのころ二人の保安官は「テキサス・ミッドランド銀行のうち、規模の大きなものは狙っていない」ということに気づきます。保安官たちは張り込み先を変更することに決め、兄弟たちの行き先と同じ街へと急行します。
兄弟が目標の店に着いたとき、すでに昼に近くなっていました。今までよりも客の数が多く、また警備員も配置されていました。そのため銃撃戦となって人を殺害した上、自警する市民らから追跡されることになります。郊外に出た後、兄が備えていたサブマシンガンによって市民らを追い払い、さらに兄が追跡の囮となることを志願します。弟はしぶしぶながら同意し、用意していた二代目の車に金を積んで逃げ切ります。
兄の方は複数の保安官たちに追い詰められ、荒野でまた銃撃戦となります。その中で、兄弟を追っていた二人のうちの片方が射殺されます。もう片方は悲しみつつも職務上の冷静さを保ち(この時のマーカス・ハミルトンの演技がかなりいいですね)、大回りで兄の背後につき、相棒の仇を討ちます。弟は逃げた先のカジノのTVニュースで、兄の死を知って静かに泣くのでした。弟の乗る車のヘッドライトが片方切れていて、代わりについているウインカーがまるで涙のようになっているのも味があります。
兄と無関係な市民、そして保安官が犠牲になったものの、弟は当初の目的通り牧場を維持し、息子に託すことができました。おまけに担当保安官の片方は死に、もう片方は定年退職しており、決定的な証拠もなかったため、逮捕されることもありませんでした。ただ、逮捕する権限を失いつつも定年の保安官は弟を疑っており、彼の元を訪れます。そして「お前さん(弟)が四人を殺した」「一生(罪を)背負っていくのさ」と言葉で責め立てます。そして近いうちに再会を約束するのでした。
【考察】良心は実刑より重い罰になる
結果を見れば、弟は目標をすべて達成しました。肉親を失ったことが大きな悲しみだったのは間違いありませんが、自分が実刑を受けてでも守ろうとした家族を豊かにすることはできました。とはいえやはり、金銭的な話に過ぎないのは間違いありません。「かつて奪われた分を奪い返す」という名目を掲げ、実際に金銭しか奪っていないうちはまだ筋が通っていましたが、無関係な人を殺したことは完全に悪です。
これが前科者の兄であったなら、良心の呵責を覚えることはなかったかもしれません。兄は非常に楽観的かつ、思い付きで行動する人物として描かれていました。銃撃戦にあまり躊躇しなかったことからも、邪魔する人間を排除することにさほど抵抗を持っていなかった可能性があります。ある種、根っからの悪人とも言えるでしょう。
一方で弟は違います。彼は非常に賢く、行動も慎重に起こしていました。強盗の動機もあくまで「息子たちを貧乏にしないため」と他人想いでしたし、強盗自体もかつて母を苦しめたテキサス・ミッドランド銀行に目標を絞ることで、自己の行動を正当化しようとしていたきらいがあります。西部劇的な自衛と正義の心を主張したくなるくらいには、分別のある人間なのでしょう。秩序を重んじる心も、人並みかそれ以上にあるのだと思います。
そんな良心をもつ男が、成り行き上人を殺めてしまいました。自ら手をかけてはいなくとも、その「成り行きそのもの」をはじめに考え出したのは彼です。であれば、やはり弟は悪を働いたと言う他ありません。法的に嘱託殺人などが成立しないとしても、彼自身が悪であることを知っているはずです。
そのことをまるで看破しているかのようなマーカスの言葉には、ある種実刑よりも弟を苦しめる重みがあるように思えます。もしも逮捕され、何十年もの間懲役に服すことになったら、そのことが贖罪になります。懲役そのものは苦痛ながら、定められた服役をこなすことで罪の意識が軽減されるという救いにもなります。特に弟のようにしっかりした良心を持つ人には尚更でしょう。
逆に言うと、罪の自覚があるのにうまく贖罪できないというのは精神的な苦痛を伴います。まったく良心のない、生粋の悪人であればなんの苦しみも覚えないのでしょうが、たいていの人にとっては辛くて仕方ないに違いありません。ドストエフスキーの『罪と罰』といった例を挙げるまでもないと思います。実際、本作のラストでも「楽になりたい」という言葉がぽろっと出てきます。
罪を償いたくても方法がなく、自らの犯行を勘づいている保安官には逮捕の権利がなく、罪を半分分けた兄もおらず、一人で背負っていく……その苦しみは計り知れません。マーカスがそこを突くのは、残酷というよりも究極的な苦みがあります。銃を取り出したり、怒りだしたりもせず、ただ静かに弟の良心を攻撃する。余韻のある苦みが格別です。
【考察】アカデミー賞受賞に至らなかったのも無理はない
以上、なにかと見どころのある本作ですが、2016年の賞レースではなにかと「あと一歩」というところに留まって終わりました。個人的にも、「いい映画なんだけどもうちょっと上手くやれたんじゃないか」という部分がいくつかありました。筆者の着眼点が審査員のそれと完全に一致しているとは思っていませんが、雰囲気的には同じような評価だったのではないか、とも考えています。
いったい何がいけなかったのでしょうか。考えられる要因の一つは人種です。本作の主要人物は白人ばかりでした。アルベルトだけはインディアンとメキシコ人の血を引いていましたが、他は白人だったことがかなりマイナスに捉えられたのだと思います。2016年は映画関係者が白人ばかりであることが強く問題視された時期であり(#OscarsSoWhite)、その風潮の中で本作を勝ち上がらせるのは世間的に難しかったのでしょう。
メインテーマとしても、2016年でなければいけない理由に乏しかったように感じます。本作の問題の根底にあるのはサブプライム・ローンをはじめとする銀行の搾取行為であり、2016年地点で問題の露見から何年も経っていました。いまだ問題が解決したとは言えないにしても、もっと早く公開できていればそれだけ人々の共感を呼べたのではないかと思います。
また賞レースとしては、Netflixの配給だったことも大きかったように感じます。各映画賞の受賞作品について、はじめから劇場公開を第一としていない映画を対象とすることに反対する動きがあります。『最後の追跡』に関しては、合衆国内でかなり拡大されて劇場公開されていましたが、それでもネット配信のアンチ派からは目の敵にされてしまったのではないでしょうか。
最近はアルフォンソ・キュアロン監督『ROMA/ローマ』が金獅子賞を獲得したり、Netflix作品を賞レースから除外するのは米国内の独占禁止法に抵触すると明言されたりして、平等に扱われたりしているように見えますが、そもそもこのような話が出ること自体、アンチ派が一定数いることの表れでしょう。本作もそのあおりを受けたように思えます。
総合すると、もし二年ほど早く、はじめから劇場公開作品として世に出ていれば、より高く評価されたのではないかと考えます。製作事情は簡単に変えられるものではないのですが、もしかしたら違う結果になったのでは……と想像してしまいます。
【評価】数年早く出ていれば名作になりえた一本
『最後の追跡』は、社会の隙を突くような出来のよい犯罪映画です。社会性もキャラクター性も十分にあり、名作と呼ばれうるだけの品質も持っています。展開の転換も巧みで、いい作品なのは確かです。
ただし、時代の変化が速い21世紀においては、世に出るのがやや遅かったように思えてなりません。世間が求めていたものを提示したとは言いにくいのも事実です。総合すると、「出てくる時代を誤った名作」というのが適切に思えます。
(Written by 石田ライガ)