日本でもっとも有名な怪獣映画は何かと聞かれれば、おそらく多くの人がゴジラと答えるでしょう。1954年に公開された第1作からおよそ半世紀以上、ゴジラは日本人にとって馴染みの深い怪獣として認知されています。世代によっては、ゴジラが人間の味方であるという印象すら持っているかもしれません。
しかし、人類の敵であり、恐怖の象徴であったゴジラが再び姿を見せるようになったひとつのきっかけは、1984年に公開されたシリーズ第16作目の『ゴジラ』でしょう。そこでは実際にゴジラが日本に出現したらどうなるかというifの世界が、当時の世界情勢も背景にしながら、リアリティを持って描かれています。
今回はそんな1984年版『ゴジラ』の感想や解説について、一部考察を交えながら紹介します。公開から四半世紀以上も経過している映画ですが、これから作品を見る人はネタバレに注意して読むようにしてください。
また、1954年に公開された初代『ゴジラ』と区別するために、以降の文中では見出しを除き、本作を便宜上『84年版ゴジラ』として記載します。
目次
映画『ゴジラ(1984年版)』を観て学んだこと・感じたこと
・原点回帰にしてエポックメイキングだった作品
・当時の世界情勢を背景に、日本政府と自衛隊がゴジラに挑む!
・初代『ゴジラ』、そして『シン・ゴジラ』と比較して見るとまた面白い
映画『ゴジラ(1984年版)』の作品情報
公開日 | 1984年12月15日 |
監督 | 橋本幸治(本編) 中野昭慶(特撮) |
脚本 | 永原秀一 |
出演者 | 牧吾郎(田中健) 奥村尚子(沢口靖子) 奥村宏(宅麻伸) 林田信(夏木陽介) 三田村清輝 首相(小林桂樹) |
映画『ゴジラ(1984年版)』のあらすじ・内容

伊豆諸島にある大黒山が噴火したことを受けて、現地付近を航行していた記者の牧吾郎は、行方不明になっていた漁船を島の近くで発見しました。船のなかで唯一生き残っていた奥村宏は、青白い光を発して不気味に咆哮する巨大生物を見たとくり返します。それは過去に日本を蹂躙した生物、ゴジラでした。
日本近海を航行していたソ連の原子力潜水艦がゴジラに沈められたことを受けて、政府はゴジラに関する情報公開に踏み切ります。
放射能を餌とするゴジラに対して、核の使用を求めるアメリカとソ連。しかし、日本は領土内での核の使用を拒否し、現存の戦力でもってゴジラを沈める作戦を立てます。自衛隊の戦力が展開されるなか、闇に包まれた東京湾の水面からゴジラが姿を現すのでした。
映画『ゴジラ(1984年版)』のネタバレ感想
【解説】原点回帰にしてエポックメイキング

ゴジラシリーズ第16作となる『84年版ゴジラ』は、1954年に公開された最初の作品『ゴジラ』の直接の続編であり、かつて東京を壊滅させたゴジラが再び姿を現したという物語です。そのため、ゴジラシリーズとしては2作目にあたる『ゴジラの逆襲』から、15作目『メカゴジラの逆襲』に至るまでのストーリーが一切なかったものとして扱われています。
一方、本作は5年後に公開された第17作『ゴジラVSビオランテ』と直接つながっており、平成ゴジラシリーズと呼ばれる一連の作品群のはじまりを築いた作品となっています。
昭和期最後のゴジラ作品である『84年版ゴジラ』の最大の特徴は、やはりゴジラが人類の敵であるという点でしょう。それまでのゴジラは初代『ゴジラ』を除いて、ほかの怪獣と戦うゴジラ、あるいは人間の味方としてのゴジラの姿が描かれています。本作はこうしたイメージを覆し、初代『ゴジラ』のように怪獣が人間社会を蹂躙するという、パニック映画としてのゴジラの側面が強く出ています。
さらに、核という人間の業を背負った存在として再び描かれているのも、本作の特徴のひとつです。公開時の1980年代はちょうど東西冷戦によって核の存在がシビアに捉えられながらも、高度経済成長によって人々が沸き立っていた時代でもありました。こうした時代において、反核という世情を反映させながらも、もし日本に怪獣が出現したらどうするかというifを示しているのが『84年版ゴジラ』なのです。
監督は本編と特撮でそれぞれ担当を分けており、本編を橋本幸治が担当しています。橋本は過去のゴジラ作品のうち、『キングコング対ゴジラ』、『ゴジラ・ミニラ・ガバラ オール怪獣大進撃』でそれぞれ助監督を務めました。一方、特撮は中野昭慶が担当。ゴジラを演出する際には肉体のぶつかり合いが大事だといい、本作でも熱線はタイミングを絞って使用したというこだわりを持っています。
また、本作の音楽は、初代『ゴジラ』をはじめ多くの楽曲を提供してきた伊福部昭ではなく、オーディションによって選出された小六禮次郎が担当しています。伊福部の楽曲がないことに物足りなさを感じるという声もありますが、本作における「スーパーXのテーマ」や「自衛隊マーチ」は、その後のゴジラ作品における自衛隊の威風堂々とした様子をよく表現しているといえるでしょう。
当時の国際情勢を反映させた作品

『84年版ゴジラ』の物語の中心には、新聞記者である牧吾郎と、ヒロインである奥村尚子とのロマンス的な要素もあります。それ自体は人間に対するゴジラの脅威を演出するためのスパイスではあっても、ふたりの物語が大して面白いわけではありません。しかも、奥村尚子役であった当時の沢口靖子の演技は、お世辞にも上手いとは言い難いものがありました。
むしろ、本作が怪獣映画として見応えがあるのは、他国との駆け引きを行いながらもゴジラに正面から立ち向かう日本政府の存在が大きいといえるでしょう。ゴジラの登場によって日本だけではなく世界にも緊張が走り、アメリカとソ連が日本へ介入してくる様子は、冷戦末期である当時の国際情勢も踏まえたつくりとなっています。
両国の介入に対して、毅然とした態度で牽制する一方、専門家とともにゴジラへの対策を講じる日本政府。その一連の様子は多少の粗があるものの、細部にまでこだわりが貫かれており、観客をぐいぐいと引きつける魅力を持っているのです。
当初、日本政府はゴジラの存在を国民に伏せています。それもそのはず、情報を公開すれば日本全体がパニックになるのは目に見えているからです。
しかし、日本近海を航行していたソ連の原子力潜水艦をゴジラが沈めてしまったことによって、事態は急変します。冷戦下のソ連は原子力潜水艦を沈めたのがアメリカの攻撃によるものだと誤解することに。日本政府が沈黙を続けていると冷戦の激化を招いてしまうため、やむなく情報を解禁するという流れになっています。
通常攻撃では歯が立たないゴジラに対して、アメリカやソ連は日本国内での核の使用を訴えます。けれども、首相の三田村は非核三原則を盾として、日本での核の使用は認められないと、アメリカやソ連の要望を拒否。ゴジラを仕留め損なった場合、次に狙われる可能性がある立場のアメリカやソ連からは、三田村の行動がエゴイズムだと批判されることになります。しかし、三田村は核を使いたがることもまた、エゴイズムだと反論します。
冷戦下における核とゴジラ。2つの脅威から自国を守ろうとする政府の舵取りと、毅然とした態度で他国へ主張する日本の姿が強調されているのが印象的です。その後、自衛隊が誇る超兵器スーパーXの活躍もあって、一度は日本が単独でゴジラを行動不能に追い込みます。
しかし、日本が主張する非核三原則を無碍にするかのようにして、東京湾に浮かぶソ連の貨物船には、なんと地上攻撃用衛星が装備する核ミサイルの制御装置が密かに積み込まれていました。会議で日本に理解を示したソ連が制御装置を停止させようとしたところ、ゴジラの襲撃によって装置は誤作動を引き起こし、衛星からゴジラに向けて核ミサイルが発射されてしまいます。
自国のミサイルでは迎撃できないというソ連の主張に対して、日本はアメリカへ迎撃を依頼。無事この破壊に成功するのでした。ところが結局、この迎撃がもとになってゴジラは復活します。その意味では、最後まで日本政府を困らせたのはゴジラではなく、ソ連だったといえるでしょう。
なお、日本への核の持ち込みは、過去には「日米核持ち込み問題」としてたびたび現実に話題となったテーマです。そして、2000年以降に明らかにされた複数の証言や事実から、これまで実際に持ち込みがあったのだとされています。冷戦時においてどのような取扱いがあったのかは定かではありません。しかし、装置だけとはいえソ連が持ち込んでいたという設定は、いま見ると妙なリアリティに包まれています。
それまでになかった自衛隊のリアルさが際立つ

ゴジラと人間の戦いにおいて、自衛隊の存在は欠かせないといえるでしょう。これは『84年版ゴジラ』に限った話ではありません。初代のころから自衛隊は作中に登場しており、しかもリアリティを追求するために、当初からゴジラ映画の撮影に自衛隊が協力しています。作中で使用される兵器のほとんどが実際の自衛隊で使用されている装備そのままであり、人によってはこうした装備をひとつずつ探し出すのも面白いといえるでしょう。
ただし、実際に作中で「自衛隊」という名称が使われるようになったのは、『84年版ゴジラ』からでした。それまでは防衛隊や防衛軍といった名前で登場しています。
『84年版ゴジラ』においては、その自衛隊の存在は非常に細かく描かれています。特に、東京湾上陸に備えて湾岸で自衛隊が交戦準備を進めているシーンは、一見の価値があるでしょう。幾人もの隊員が準備に追われつつも規則正しく動き回り、トラック型の指揮車両がゴジラに関する情報収集を行う様子には、実際にあるかもしれないと思わせるような雰囲気があります。
確かに、ゴジラと自衛隊が実際に交戦している様子も見応えはあります。サーチライトを照射しながら大量のミサイルを打ち込むものの、ゴジラに傷ひとつ付けられない戦車隊や戦闘機。それらが逆に熱線でなぎ払われていくシーンは、怪獣対自衛隊を直接的に演出しながらも、どうしようもない強大な怪物に対する人間の無力さをよく表しているといえるでしょう。
しかし、こうした交戦以外のシーンまで詳細に描くことによって、作中における自衛隊が架空の防衛軍ではなく、実在の軍隊として強いリアリティを持って浮かび上がるのです。こうした流れを受けてか、以降のゴジラシリーズでも自衛隊や特殊部隊の様子が細かく登場するようになります。
メーサー車にスーパーX、超兵器はゴジラ映画の華

そんなリアリティにあふれた自衛隊の様子とは相反するかのようにして、『84年版ゴジラ』には特撮の目玉ともいうべき超兵器が登場します。本作で登場するのはハイパワーレーザービーム車、そしてスーパーXです。
ハイパワーレーザービーム車は過去のゴジラ作品でも登場しており、それほど目新しいものとはいえません。特に、特撮ヒーローをはじめとする作品に馴染みが深い人にとっては、レーザー兵器の存在は見慣れたものだといえるでしょう。
しかし、それを自衛隊が使用するという展開に熱くなってしまうという人も多いのではないでしょうか。他の実弾兵器とともにゴジラへ向けられるレーザー兵器には一種のロマンめいたものがあります。その光はどこか現実離れしていながらも美しく、怪獣映画に華を添えているといえるのです。
そして、スーパーXの存在はそれまでのゴジラ作品ではまったく見られない、独特の兵器として登場します。核戦争時における首都防衛を目的として極秘に開発されたとされるスーパーXは、その特徴や機能から、「首都防衛移動要塞」と称されることも。ヘリコプターのように陸上滑走せずに離着陸ができるVTOL機として、自衛隊の兵器のなかでも極めて異質な存在感を発揮しています。
そんなスーパーXはゴジラの熱線を2度にわたって防ぎきり、カドミウム弾で一度はゴジラを沈黙させるなど、その戦闘力はもはやフィクションだといえるでしょう。しかも、搭乗時や離陸時のシーンではここぞというタイミングで「スーパーXのテーマ」が流れます。いささかフィクションに傾倒しているとはいえ、こうした演出にわくわくする人も多いはずです。そのスーパーXですら、最後にはゴジラに破壊されてしまうのですが……。
ちなみに、『84年版ゴジラ』の劇場パンフレットでは、当時の科学技術でスーパーXが建造できるという記述があったそうです。その可否は実際に本作を見て判断してください。
『シン・ゴジラ』ではこうした架空の超兵器が登場することはなく、自衛隊の存在をよりリアルに近づけていました。一方、『84年版ゴジラ』は自衛隊のディテールにこだわりながらも、超兵器の存在にある一定の存在感を与えてバランス良く登場させることに成功しています。そして、良くも悪くも以降の平成ゴジラシリーズでは作品が変わる度に、新たな超兵器が登場することとなるのです。
【考察】初代『ゴジラ』と『シン・ゴジラ』との比較が面白い
『84年版ゴジラ』と初代『ゴジラ』、そして『シン・ゴジラ』はきれいに比較できるような作品ではありません。しかし、いくつかの共通点を持っているので、見比べてみると新しい発見があるはずです。
たとえば、『84年版ゴジラ』や『シン・ゴジラ』では、日本政府とゴジラの関係が色濃く描かれており、それ以外の怪獣が一切描かれていません。日本政府の総理は『84年版ゴジラ』のほうが決断力もあるようにみえます。一方、『シン・ゴジラ』では主人公をはじめとする周りの政治家のほうがかっこよく描かれているのが印象的です。
自衛隊が出動するプロセスの描き方はさすがに『シン・ゴジラ』のほうがリアリティがあるといえるでしょう。自衛隊の出動における法的根拠を巡っての議論などは細かく調べ上げられており、「もしゴジラが日本に出現したら」という状況に対して真面目に向き合っているという印象を受けます。その点、『84年版ゴジラ』を含め自衛隊の投入が至極当然のようにして行われており、疑問が差し挟まれる余地はありません。
また、オマージュにも共通する部分があるのは見逃せないポイントでしょう。たとえば、『84年版ゴジラ』の後半、品川に出現したゴジラが新幹線を持ち上げて破壊するシーンは、初代『ゴジラ』における同じ場所での旅客列車の踏み潰しを彷彿とさせます。ゴジラにおいて不遇の存在ともいえる鉄道車両は、『シン・ゴジラ』において無人在来線爆弾に姿を変え、見事にゴジラへの逆襲を果たすという快挙を成し遂げました。
さらに、『84年版ゴジラ』では、首相がアメリカとソ連に対して、もし自国にゴジラが現れたら首都でためらわずに核兵器を使えるかと伝え、核の使用を断念させるシーンがあります。これに対して『シン・ゴジラ』では、国連安保理でゴジラへの核攻撃を決議させたアメリカが、「ここがニューヨークでも、彼らは同じことをする」と述べるエピソードがありました。その台詞から明らかに『84年版ゴジラ』を意識していることがわかります。
メロドラマ的な部分やキャストの場違いな台詞に白けてしまったり、30分で新宿から都民を避難させたりと、『84年版ゴジラ』にはツッコミどころや粗が多いのも事実です。また、ゴジラシリーズの音楽に欠かせない伊福部昭が不在であるなど、旧来のファンからは物足りないと思われることもしばしばあります。
しかし、『シン・ゴジラ』ほどではないにしても、パニック映画としての手堅い作りや、怪獣出現時の日本政府の行動をそれなりに詳しく描いている点は、過去のゴジラ作品と一線を画しているといえるでしょう。そして、超兵器でもって立ち向かう自衛隊の姿を提示した点は大きく、昭和最後のゴジラ作品として、平成ゴジラ作品の開幕に相応しい一作となっているのです。
初代『ゴジラ』の作中で、ある登場人物が最後にこんなことを言っています。消滅していくゴジラに対して、あのゴジラが最後の1匹とは思えず、世界が水爆実験を続けている限り、他の同類が現れるかもしれない、と。
その意味では、本作『84年版ゴジラ』は世に放たれるべくして発表されたのだといえるのかもしれません。