映画「幸福なラザロ」はカンヌ国際映画祭で脚本賞を受賞するなど、高い評価を得ている作品です。
「夏をゆく人々」で賞賛を受けたアリーチェ・ロルバケル監督の新作でもあり、純粋無垢で何も望まず、決して怒らず、人を疑わない善人ラザロを描いています。彼を中心に時代の変化の中で生きる人々、そして、社会全体を覆う不条理さを描き出しています。
今回は映画「幸福なラザロ」のネタバレ感想・解説・考察を書いていきます。
目次
映画「幸福なラザロ」を観て学んだ事・感じた事
・ラザロの純粋さに思い出される大事なこと
・時代は変わっても残存する都市・農村、支配・被支配という構造の不条理さ
・美しい自然が描き出す魅力的なイタリアの田園風景が魅力的
映画「幸福なラザロ」の作品情報
公開日 | 2019年4月19日 |
監督 | アリーチェ・ロルバケル |
脚本 | アリーチェ・ロルバケル |
出演者 | ラザロ(アドリアーノ・タルディオーロ) アントニア(アルバ・ロルヴァケル) タンクレディ(ルカ・チコヴァーニ) デ・ルーナ伯爵(ニコレッタ・ブラスキ) |
映画「幸福なラザロ」のあらすじ・内容

外の世界と隔絶されたイタリアの小さな村では、タバコ農園を営みながら、デ・ルーナ伯爵夫人の小作人として生活を送っていました。
その村の中に、ラザロという誰よりも働き者の若い農夫がおり、彼の優しくもお人好しな性格によって仕事を押し付けられたり、バカにされたりもしていました。
そんなラザロは伯爵夫人のタンクレディと出会い、強い絆で結ばれます。伯爵夫人のやり方に疑念を抱いていたタンクレディは誘拐事件を演出し、身代金をだまし取ろうと企てます。
しかし、それにより本来、小作人の所有が禁止されている中、伯爵夫人とこの村が世間にバレてしまいます。村を追われ街に行くことになった村の人々、そしてラザロは都会で貧しい生活を送ります。
映画「幸福なラザロ」のネタバレ感想

なんともいえない雰囲気を醸し出しながら、映画の主人公でもあるラザロの存在感、そして彼を中心に巻き起こる事件や人間模様など、大きな展開はないものの、観客の心に確実に爪痕を残していく様は圧巻です。
ラザロという純粋無垢な青年自体にフォーカスして考えることもできますし、村全体、そして都市、時代の流れ、人間の心などと対比させることによって、この映画はより味わい深いものになっていきます。
貧しい生活を送りながらも、どこか満足そうな感じを出しているラザロ。決して求めず、そして怒らない彼の存在は、私たちの心をそっと浄化してくれるような感覚に浸らせてくれます。
ここでは、映画「幸福なラザロ」の感想を1つ1つの項目に分けて書いていきます。
【解説】映画「幸福なラザロ」の「ラザロ」はキリスト教の聖書に登場?

映画の内容に入る前に「ラザロ」という人物について軽くおさらいしておきます。ここでのラザロは、映画に登場するキャラクターではなく、キリスト教の聖書に登場する人物を指します。
ラザロというネーミングをチョイスした上で、あのような内容の映画になっているので、キリスト教的な価値観が内在された映画であると予想されます。ここでは、軽く「ラザロ」について紹介していきます。
ラザロという人物は、聖書内でイエスの友人として登場します。ラザロが死んだという一方を聞きつけて、やってきたイエス一行に対して、イエスが墓の前にたち「ラザロ、出てきなさい」と言うと、死んだはずのラザロが蘇生したという逸話が残っています。
このことがきっかけで、イエスへの信仰が高まったとも言われており、ラザロはキプロスの初代主教となりました。ラザロの蘇生については、人類の罪をイエスが贖罪し、生に立ち返らせることの予兆として解釈されています。
また、「金持ちとラザロ」というイエス・キリストの例え話にも登場します。
金持ちの者と対照的に貧乏なラザロが登場し、彼らの死後の世界での末路が語られています。ラザロに対して同情心を持たなかった金持ちは死後苦しみ、一方でラザロは貧乏な生活を送っていましたが、死後の世界で癒されていきます。
そこで、神と富の両方に仕えることはできないという教えを説き、名誉と富に執着し、哀れみの心を失うことの危険性を警告しました。
このような内容がキリスト教で伝承されている「ラザロ」という人物についてです。これを知っておくだけでも、映画「幸福なラザロ」の内容がより深く入っていくことでしょう。
【解説】映画のラザロという人物像を詳しく紐解く

次に、映画「幸福なラザロ」に登場するラザロを深く掘り下げていきましょう。
ラザロは小さな小作人の村に住む、働き者の若者です。優しくて決して怒らず、人を疑わない純粋無垢な性格で「ザ・良い人」の典型のような人物です。
しかし、良い人なだけに「都合のいい人」として村人からは見られており、仕事を振られたり、村人からからかわれたりするなど、決して高く評価されている人物ではないことも伺えます。
自分から何かを望むようなことは一切なく、それは冒頭のシーンで、食べ物が振舞われた際に、自分から手に取ろうとせず、結局数が足らなくなって、自分は食べないというシーンからもよく現れています。
人が望めばなんでもやってくれる優しさを持っており、仕事を頼めば断らないし、タンクレディがタバコとコーヒーを望めばすぐに差し出します。そんな絵に描いたような善人のラザロ。確かに、キリスト教の中で登場するラザロとリンクする部分が多くあります。
そして、内心を言葉にするような性格ではないのですが、貧しい生活ながらも満足しているような感じをうかがわせます。欲がない故に幸福感を得やすい人間ともいえますし、このような人物は普通いないので、見ている側からすれば珍しさも感じさせます。
映画の中では、徐々に彼の人物像が明らかになっていくのですが、明らかになっていくというよりは、最初の印象がそのまま継続されている感じで、心の中に秘めている不満があるわけでも、邪悪なものを抱えているわけでもない、本当に純粋無垢な人物であることが明らかになっていきます。
「聖なる愚者」という言葉がぴったりくる人物でもあり、それがこの映画におけるキーファクターでもあります。
【考察】キリスト教の逸話を想起させるスケールの大きさ

この映画の大きな流れとしては、ラザロが住む小作人の村があり、貧しくもたくましく生きています。電球を使い回すぐらいの貧困ぶりで、借金が膨らんでいく一歩ではありますが、村人から笑顔が消えることはなく、それとなく楽しい生活を送っているような感じも見えます。
そして、この村を支配しているのが領主のデ・ローナ伯爵夫人です。定期的に村を訪れ、村人と交流をしながら厳しく村を統治していきます。
伯爵夫人のタンクレディが起こした狂言誘拐事件によって警察が出動。その際に小作人であることが判明します。映画の舞台となった時代では、小作人の所有が禁止されたこともあり、デ・ローナ伯爵夫人は捕まってしまい、村ごと解体されて住民は街へと移り住むことを余儀なくされます。
タンクレディを探し回った際に、崖から落ちて気を失っていたラザロは、村人の移動に乗り遅れてしまい、歩いて街までたどり着きます。
かつての村人と再会を果たし、今度は街での貧乏な暮らしが始まります。それでもラザロは何1つ求めない性格をしているので、村での暮らしと同様にいつもとからわない感じで生きていました。
ここで思い出されるのが先ほど紹介した「金持ちとラザロ」です。おそらくメタファーとして、金持ちには伯爵夫人が該当します。ただ、伯爵夫人に関しては、村人の子供達に教育を施すなど慈悲深い部分もありました。
確かに小作人として村を支配していた上に、村人からもあまりよく思われてはいなかったものの、無慈悲な金持ちという印象はありませんでした。そんな伯爵夫人が捕まってしまい、街に行かざるをえなくなった村人たち。生活は村で送っていたものよりもはるかに厳しくなってしまいます。
仕事にもありつけず、お金を稼ぐために強盗や詐欺を重ねながら、小さな家で集まって暮らしています。小作人という支配のシステムから人を解放したと聞けば聞こえはいいですが、それでも待っているのは過酷な生活というわけで、どこか正しさを疑わせるような印象をこちらに抱かせていきます。
小作人としての生活は自由ではないものの、食べ物はあったわけですし、仕事もあったわけです。それに引き換え都市での生活は仕事もなく、お金も得られない中で、厳しい生活を余儀なくされていきます。
本当にこの行いが正しかったのか疑わせる対立軸、都市と農村、自由と不自由、この辺を批判的に描いていきます。
そして、最後にはタンクレディの資産を取り戻そうと銀行に赴いたラザロが、強盗と間違われて客に殺されてしまいます。ラザロ自身は全く悪気はなかったのですが、人々の勘違いによって不運の死を遂げてしまいます。
このシーンにおける「金持ちとラザロ」という逸話を感じさせるのは、慈悲のない現代人とラザロの対比です。
伯爵夫人はまだ村人を厳しくも気にかけるようなシーンがあったものの、都市での人々は全く慈悲などありません。時代の変化を批判的な視点で描きながらも、キリスト教的な価値観の普遍性を映画の中に盛り込み、ラザロという人物を際立たせています。
キリスト教の逸話に沿って解釈すれば、ラザロは最後死んでしまいますが、死後の世界で癒されるのだろうと考えることができます。そして、彼の純朴な心はいつか復活し、人間が本来持つべき優しい心を呼び起こすことでしょう。
欲にまみれた現代人と対比的なラザロの存在感によって、私たちの心を浄化させる、そのような映画だと思いました。
【解説】豊かな自然描写が一層映画を引き立てる

今作はラザロという善人を中心に描かれる現代の寓話のようなストーリーが魅力的なのですが、そんな映画を際立たせているのが、スクリーンを通じて伝わる豊かな自然の描写です。
イタリアの小さな村を舞台としながら、田舎の風景を余すことなく伝えてくれます。
農産物の収穫のシーンで草木が揺れる中、どこからともなく「ラザロ」を呼ぶ声が聞こえながらかき分けて進んでいくシーン、土埃をあげながら車が走っていくシーン、ラザロが秘密にしている隠れ家に登っていくシーンなどなど、あげればキリがないほど、目を惹きつけられるような美しいシーンの連続です。
そして、それとは対比的に汚れた都市の描写も魅力的です。風光明媚な自然とは対照的に、空気が汚れた感じ、ゴミが散乱し田舎とは正反対の汚さを表現しています。
それを可能にしているのが、フィルムによる撮影手法でもありました。目を奪われるような美しい感覚が研ぎ澄まされたシーンの連続はそれだけでも満足できますし、映画の世界観を一層引き立てていました。
【解説】どこまで言っても人が人を搾取する不条理

映画「幸福なラザロ」で描かれているのは、1980年代ぐらいのイタリアの農村部です。この時代では封建的な小作人制度が廃止されたものの、一部の村で残存しているという状況でした。
人が人を支配する不自由で不条理な世界、中世は権力が1つにまとまっていたのに対して、時代の変化によって権力が分散します。ただ、それでも人が人を支配する構造に変化はありませんでした。
そして、小作人支配が発覚して村が解体された後でも、村人は都市での資本による支配に隷属しなければなりません。それは何も村人に限った話ではなく、都市に住む人々は安定した仕事にありつけている場合もあれば、ブローカーから仕事を持ち寄られて、賃金を安く押さえ込まれている現状もありました。
時代は変わり、周りの風景も変わり続ける中でも、このような不条理な現実というものは何1つ変わっておらず、搾取が終わることが決してないということも、この映画では描き出されています。
この辺は日本でも共感できる部分かもしれませんね。結局は人が支配され、搾取される構造は姿を変えながら存続し続けており、見えない階級が存在する現代の厳しい状況を表現しています。
そこにラザロという普遍的な人物像があるからこそ、こういった要素が際立ち、見ている人に伝わるのでしょう。
【解説】主演のアドリアーノ・タルディオーロ、監督のアリーチェ・ロルバケルには大注目

映画「幸福なラザロ」の監督を務めたのは、この映画で長編3作目となるアリーチェ・ロルバケルです。若手の映画監督ながら、前作の「夏をゆく人々」ではパルム・ドールにノミネート、さらにカンヌ国際映画祭審査員特別グランプリを受賞しています。
そして、映画「幸福なラザロ」でもカンヌ国際映画祭脚本賞を受賞。パルム・ドールにノミネートされるなど、イタリアを代表する気鋭の映画監督でもあります。生き生きとした風光明媚な風景に特徴があり、都市と農村という対比的なテーマを多く描いています。
世界中から注目を集める女性監督でもあり、今後の作品にも注目が集まります。
そして、この映画でラザロ役を務めたのが、アドリアーノ・タルディオーロ。彼はこの映画がデビュー作でもあり、この映画に出演するまで演技の経験が全くありませんでした。監督のスカウトもあり、ラザロ役を演じることになったのですが、見る人を惹きつける純粋な目や現代人らしくない体格など、特徴的な見た目をしています。
ラザロというわかりやすく難解なキャラクターでもある人物を、色を付け過ぎることなく演じきっています。
新進気鋭のイタリア人映画監督と独特な魅力を放つ新人俳優。この2人の化学反応によって、映画「幸福なラザロ」は一層輝きを増しています。今作でも非常に完成度の高い映画を見せてくれましたが、今後それぞれがどのような活躍を見せるのか期待できますね。
映画「幸福なラザロ」は現代に蘇る壮大なおとぎ話
映画「幸福なラザロ」は、ラザロという純粋無垢な若者とそれを取り巻く周囲の人物、そして社会全体や時代の変化を、キリスト教的な価値観を交えながら表現している作品です。
ラザロという人物の純真さに心洗われる体験は、そこまで多くはないといえるでしょう。そして、時代の変化と社会の不条理さを丁寧に描きながら、ラザロという若者がもたらす壮大なドラマが面白いです。
宗教的な価値観が含まれているとは言っても、そこまで小難しい映画というわけではなく、軽やかに心にしっかりと残る映画です。