映画「君は月夜に光り輝く」は、病気で退屈なまみずの日常に卓也が現れ、病院の中で過ごしながら死を待つしかなかった日々から自分の世界が広がっていく作品です。「生」への喜びと、その裏で目を背けられないほど大きな「死」をありありと感じました。
卓也は過去に姉を亡くしている過去があり、そのせいでどこか無気力に生きていまますが、まみずと出会いまみずの「死」を意識することで、過去と今が交錯していきます。
今回は「生死」をテーマにした映画「君は月夜に光り輝く」を観た感想、解説を書いていきます。ネタバレも含みますので注意してください。
目次
映画『君は月夜に光り輝く』を観て学んだ事・感じた事
・大切な人の「死」に人はどう向き合えばいいのか
・命はいつ終わるか分からない。だからこそ大切にしたい
・「本当の優しさ」について考えさせられる
映画「君は月夜に光り輝く」の作品情報
公開日 | 2019年3月15日 |
監督 | 月川翔 |
脚本 | 月川翔 |
出演者 | 岡田卓也(北村匠海) 渡良瀬まみず(永野芽郁) 香山彰(甲斐翔真) 岡田鳴子(松本穂香)平林リコ(今田美桜) 岡崎 (優香) |
映画「君は月夜に光り輝く」あらすじ・内容
映画「君は月夜に光り輝く」は、映画「君の膵臓をたべたい」の月川翔監督がメガホンを取り映画化を果たしました。
渡良瀬まみずは、成人するまでの生きながらえた者はいない「発行病」というまだ治療方法の見つかっていない不治の病に冒され、余命ゼロ日の死を待つだけの日々を送っていましたが、ある日、同じ高校のクラスメイトである岡田卓也と出会います。
卓也はひょんなことからまみずが「私が死ぬまでにやってみたいことを代行して体験して欲しい」と頼まれ、まみずは卓也との交流を通し、病室の外へ出ることも出来ず死を待つだけだった生活から生きる喜びを知っていき、お互いに惹かれあいます。
しかし、二人の距離が近づくと共にまみずの病魔の足音も近くなり、避けられない死への恐怖が二人を襲われます。
映画「君は月夜に光り輝く」のネタバレ感想
細かいところに気が行き届いている作品
まみずと卓也が初めて病室で出会うシーンで私が気になったのが、まみずの髪の毛のうねりやすっぴんに見える顔、パジャマ姿でした。
病院で家族しかこない状態でおしゃれをする意味もない状況下で、髪が綺麗であったり、化粧っ気のある顔だとリアリティがありませんよね。
その後、パジャマではなく私服で髪を結っていたり、マニキュアをしているシーンもあります。病院の中から動けなくても、卓也が来ることでオシャレをすることに喜びを感じている描写にリアリティがありました。
卓也の「罪滅ぼし」で二人の距離が縮まり、変わっていく
卓也は姉の死を経験したことで無気力に生きていて、病気のクラスメイトのことも全然知りもしない上、さほど気にとめる様子ではありませんでした。
まみずの病室に初めて向かう時も仕方なく来ていただけで、自分の意思で来たのではありませんでした。しかし、帰り際にまみずに「グミが食べたい」というメモを渡され、次も病室に来ることになります。
そのグミを渡しに再度病室に訪れた際に、卓也はまみずが大切にしていたスノードームを割ってしまうのですが、まみずは怒る様子もなく、「形あるものは壊れるから」と言います。卓也は「ちゃんと罪滅ぼしさせて欲しい」と頼み、その「罪滅ぼし」としてまみずが死ぬまでに体験したいことの代行をすることになります。
最初は口下手でぶっきらぼうな印象が強かった卓也ですが、この代行をして行くうちに、彼の芯が強く、優しい部分が徐々に露わになって行きます。
「何カップ?」 卓也のイメージが変わった瞬間
「体験の代行」を通してだんだん二人の距離が近づいてきたある時、卓也がまみずの病室にあった雑誌を開いた時に、折られているページがあるのを見つけました。
そこにはSamantha Thavasaの赤いリボンのついた可愛らしいサンダルがあり、これを見て卓也は「ははーん」という顔をします。私は「あ、プレゼントする気だな」と思いましたが、次の瞬間卓也から出てきた言葉は意外なものでした。
「まみずって何カップ?」
卓也は硬派なタイプだと思っていたので、かなり驚いたシーンでした。そして「誕生日は?」「足のサイズは?」と聞き出します。
後日、卓也はSamantha Thavasaの袋を下げて病室に向かい、「これ拾ったんだけど」とまみずに渡します。まみずはサンダルに足を通し、病室の中を嬉しそうに歩き、次の検査結果が良かったら外出許可が出るかもしれないことと、このサンダルを履いて海に行きたいと言います。
この嬉しそうなシーンは、まみずが余命わずかなことを忘れさせてくれる良いシーンだと思いました。嬉しそうなまみずと、そのまみずを見て嬉しそうにする卓也、年齢相応のカップルが海へ行くデートの約束をしているだけのように感じます。
しかし、この裏では着々とまみずの死が近づいてきているのです。
体験の代行を通してわかる「本当の優しさ」
まみずの死ぬまでにしたい「体験の代行」を頼まれた時も一人で遊園地に行く、カチューシャを一人でつけたりパフェを食べたりするなど、ハードなお願いでも聞いてくれる時点で優しいのだと思っていましたが、物語が進行するにつれて「本当の優しさ」を考えさせられます。
卓也はまみずにSamantha Thavasaのサンダルをプレゼントする際に、その時初めてまみずの母親に会うことなります。まみずの母親は卓也に対し、「あの子にはあまり刺激を与えないでほしい。」という旨を告げます。楽しいことや嬉しいことですら、身体にはストレスになるというのです。
こんな病室に閉じこもっていて、刺激のない生活なんて酷な話ですが、家族からすれば1日でも長く生きてくれることで、治療方法が見つかるかもしれないわずかな可能性に希望を見出したいのです。
しかし、卓也はプレゼントをしに病室に入りまみずにプレゼントを渡しました。もちろん卓也もまみずに生きていて欲しかったハズですが、卓也はプレゼントを渡します。
また、まみずと病院の屋上で天体観測をするシーンでは、看護師の岡崎に「面会時間は過ぎている」と軽く止められるのですが「こんなところで死を待つことしかできないなんて」と屋上に連れ出して、綺麗な夜空と綺麗な満月を二人で見ます。
しかしその時、まみずが息を荒くなり、肌が発光し出して倒れてしまうのです。すぐにまみずは救急搬送され一命を取り留めましたが、まみずはこの一件で「自分はもうすぐに死んでしまう。好きな人が死んでしまったら、残された者は苦しい」という理由で、まみずは卓也に対し「もう二度と来ないで欲しい」と拒みます。
この後、結局二人はまた会うようになるのですが、相手がもうすぐ死んでしまうというのを知りつつも、関係を深めることは想像しがたいほどの勇気がいると思うのです。関係が深くなればなる程、別れのつらさは大きくなってしまいますからね。
天体観測のシーン、まみずの母に忠告された後でもプレゼントを渡すなど、まみずの母からすればまみずの命を縮めてしまう迷惑な人間だと思いますが、こんな狭い病室で命がいつか尽きるよりも、少しでも後悔がなく生きて欲しいという思いで接していきます。
この映画では、その人のためになる「本当の優しさ」は何なのか考えさせられます。
メイド喫茶で気のあるそぶりの平林リコにハラハラ
まみずとの距離が縮まっていく中、まみずのお願いでメイド喫茶のキッチンでアルバイトをしだした卓也。そこで先輩の平林リコに出会うのですが、「彼女いるの?」と聞いてきたり「私はアリだけど」と言ったり、気のあるようなそぶりをします。
さらに「リコさん」と呼ぶ卓也に対し、「リコでいいよ」と言われた時「リコちゃんさん」と言ったんですよね。私は敬語は読んで字のごとく、相手に敬意を払うためのものであると同時に、このシーンの様に相手と距離をあまり詰めたくない時に使うものだと思いました。
また、まみずと海に行けるかもしれないとなった時、海のガイドブックを読んでいた卓也に対し「海に一緒に行こう」と誘うのですが「相手がいるので」と断ります。
私はもうこの時頼むから残りすくない関係を邪魔しないで欲しい…とドキドキしていましたが、一方の卓也は距離を詰められすぎず、まみずとの関係を縮めさせます。
本当に卓也は誠実でいい人柄です。
「死」を通して過去と現在が交差する
卓也はまみずの頼みの一つである「徹夜で並んでスマートフォンを買う」為に、夜に外に出ようとするシーンがあります。
その時、後ろから卓也の母が「こんな時間にどこに行くの?」と話しかけ、「ちょっと出かけてくる」という卓也に「そうやって鳴子も出て行って死んでしまった」と母は言います。「あれは交通事故だよ」という卓也に対して「車の話はしないで!」と声を荒らげます。
卓也には姉の鳴子がいましたが、鳴子は亡くなってしまっています。まみずと同じ発光病で恋人を亡くし、生きることに絶望して「いつ死ねるんだろう」ともらし、そして本当に車に轢かれて死んでしまうのです。
鳴子は「いつ死ねるんだろう」とつぶやいた後、外に出て行ってしまうのですが、その時卓也は鳴子の机の上に置いてあった中原中也の詩集に目がいきます。それを開くと、恋人との写真が挟まっていて、その詩集の「愛するものが死んだ時には、自殺しなきゃあなりません」という一説に目が止まり、嫌な予感がした卓也は姉を追いますが、次に見た姉の姿は車に撥ねられ変わり果てた姿でした。
結局自殺なのか、交通事故なのはかわからないのですが、家族の死は、絶対にそう簡単に乗り越えられるものではありません。このことがきっかけで卓也はどこか無気力に生きている状態なのです。
まみずが「死にたい」ともらすと、姉が轢かれて倒れている現場がフラッシュバックするシーンもありましたね。人の死はいつまでも記憶に残ることがわかります。
【解説】作中に出てくる中原中也の詩の意味
この、鳴子が死んでしまうシーンに出てくる中原中也の詩は「在りし日の歌」にある一編で、「春日狂想」というタイトルです。
皮肉にもこれは中原中也が愛する亡き息子に捧げた詩です。恋人を亡くした鳴子はこの詩を読んで「いつ死ねるのかな。」と卓也にもらし、生に絶望していたようですが、これは「親側の心情」の詩なのです。なので、実はこれは卓也の母の心情に重ねることもできるのです。
鳴子を亡くしてからというもの、卓也も無気力ですが卓也の母も大切な家族である娘を先に亡くし、悲しみに暮れて「生に絶望」している状態なのではないでしょうか。
まみずは17歳で人生の幕を閉じる
今作は、まず卓也がお墓にお花を供えているところから始まるので、見ている私たちはまみずが死んでしまうことを知っている状態で見進めることになります。
映画を見ていると、もうまみずが亡くなることはわかっているのにも関わらず、どうかこの二人の間に平凡で年齢相応の恋愛をさせて欲しい、何かの奇跡が起きて、まみずが生きてくれることを願わずにはいられませんでした。
余命ゼロ日であるはずのまみずからは、実はあまり「死」を感じません。冗談が好きで可愛らしい彼女と、不器用だけどまっすぐで優しい卓也との心の交流を見ていると、まみずが抱えている「死」が遠ざかっているのでは無いかと思えるからです。
しかし、まみずの「サンダルを履いて海に行きたい」というとてもささやかな希望でさえ、結局叶うことはありませんでした。死は着々とまみずに迫り、卓也と唇を交わした後、わずか14日間で命の輝きを終わらせます。
このお話はフィクションで「発行病」という病気もありませんが、現実には病気で余命宣告をされる人がいて、短い一生を遂げる人もいるんだと改めて感じました。
命は限りがあるからこそ大切にしようと思える
生きていれば死は絶対に避けられないものですし、人はいつ死ぬかもわかりません。そして、大切な人をなくしてしまう時が、いつくるかもわからないのです。
まみずが卓也に対して「あなたのせいで生きたくてしょうがない」「もうすぐ死ぬ人間にそんなことを思わせた責任を、ちゃんと取ってください」「あなたの中を生き続ける私に、生きる意味を教え続けてください」というセリフが終盤にあります。
生きたいと思っている人が、自分が死んでしまう未来が見えているのは、当事者では無いと想像ができないような苦悩があるはずです。
また、これからも生きていく残された者は、大切な人の死によって有り余る悲しみを背負わされます。自分が死んでしまうと分かっている状態は酷ですが、だからこそ命が尽きるまで懸命に命の光を輝かせているまみずの言葉に胸を打たれました。
まみずは最後に卓也と抱きしめ合うシーンで、1度目の発光のシーンとは比べ物にならないくらい強い光を放ちます。
「まみずの肌が発光し輝いている」期間は「まみずの命が輝いている」期間なのです。
まみずは「私は私でよかった」という言葉を残して亡くなります。卓也は、まみずの命に輝きに触れることで、姉の死も含め乗り越えていくことができると思います。
人はいつ死ぬか分からないからこそ生きている間にたくさんの経験をし、大切な人に対しては誠実に想いを伝えて、なるべく悔いを残さずに生きていこうと思わせてくれる作品でした。