映画「いなくなれ、群青」は河野裕の小説が原作で、横浜流星や飯豊まりえなどが出演しています。
捨てられた人間が行き着く「階段島」を舞台に、青春やミステリー要素を含んだラブストーリーに仕上がっていました。最終的にはこの島の謎もしっかりと解明されます。
今回は「いなくなれ、群青」のネタバレ感想や解説、魔女の正体た謎についての考察をしていきたいと思います。原作小説を読んでいないので、若干ズレている部分もあるかと思いますがご了承ください。
映画「いなくなれ、群青」を観て学んだこと・感じたこと
・ただの恋愛ストーリーではなく、謎やミステリー要素が詰まった作品
・実写映画では少しクサいと思うセリフや哲学的なセリフが目立つ
・答えを見つける行為そのものが青春
映画「いなくなれ、群青」の作品情報
公開日 | 2019年9月6日 |
監督 | 柳明菜 |
脚本 | 高野水登 |
原作 | 河野裕 |
出演者 | 七草(横浜流星) 真辺由宇(飯豊まりえ) 堀(矢作穂香) 佐々岡(松岡広大) 水谷(松本妃代) 豊川(中村里帆) |
映画「いなくなれ、群青」のあらすじ・内容

捨てられたものたちが集まる島「階段島」。なぜ自分がここに行き着いたのかを知る人はいません。
階段島は平穏な場所で外界との連絡を取ることはできず、魔女という謎の存在が管理していて、この島を出るには「失くしたものを見つける」必要があります。
そんなある時、階段島に真辺由宇がやってきます。七草と真辺は昔の知り合いであり、真辺は七草に対してこの島を一緒に出ようと持ちかけます。この島に集められた理由は何なのか、隠された謎とは何か…徐々に謎が解明されていくミステリーや青春、ファンタジーやラブストーリーが入り混じった作品です。
映画「いなくなれ、群青」のネタバレ感想
ただの恋愛映画ではない!ミステリーやファンタジーが詰まった青春映画

高校生同士がただ恋愛する映画であったら観に行ってなかったと思うのですが、「いなくなれ、群青」は謎多き島が舞台になっているため、その謎を解いていくミステリーやファンタジー要素の詰まった作品でもありました。
また、この映画を「恋愛映画」とくくってしまうのも適切ではないかもしれません。高校生が登場する恋愛映画というと、少女漫画的なキラキラしたストーリーを想像するかと思いますが、この映画は構成する一つの要素としてにラブストーリーがあるだけです。
この映画は見る人によってはファンタジーともミステリーとも取れますし、七草と真辺という二人の主人公の他にも、各キャラに大きく焦点が当たって描かれているので、高校生たちが答えを見つけていく「青春映画」と捉えることもできます。
なので恋愛映画を普段見ないような方でも楽しめるかと思いますし、逆にキラキラとした高校生同士の恋愛を期待している方は「思ってたのと違った」となるかもしれません。とは言っても、予告編を見た限りミステリー要素を強く感じさせる内容になっていたので、心配はないと思いますが。
小説では気にならないだろうが、映画だと若干クサかったり哲学的なセリフがある

原作である小説を読んでいないので、劇中に登場した全てのセリフが小説にもあるかは定かではないのですが、高校生が言うにしては若干クサいなというセリフが多々ありました。
「人は幸せを求める権利を持っているのと同じように、不幸を受け入れる権利だって持っているんだよ」
活字であればスッと入る文章でも、制服を着た高校生が実際に口に出してみると少しクサいなと感じてしまいましたね。もちろん、言葉のセンスは素晴らしいのですが、こういったセリフは小説の方がありのまま受け止めれるような気がしました。
他にも、正確には忘れてしまいましたが真辺に対して「正しいことを(正義をだったかな?)正しいと思いすぎている」的なセリフ言うシーンがありました。そのセリフを聞いた時には「うんうん、なるほど……。ん、どういうことだ?」と感じてしまいましたね。
正しいことであれば正しいことなんだから、それを信じても良いのではと思いましたし、そうことではなくて、「正しいと思って信じているけど、それは本当は正しくないこと」という意味なのかなど、映画を見ていて何度か言葉の意味を考えてしまうようなことがありました。
何となく理解ができるようで、その言葉を深く考えてみると「どういうことだ?」と考えてしまうような、哲学的な要素も詰まっている作品でしたね。
【解説】階段島に捨てたのは自分自身。「いらない人格」の集まりだった

映画の中で階段島に捨てられてしまった理由が明かされていきます。てっきり、「自分の命を捨てた者の集まり」なのかと思っていましたが、ここに集められていたのは「いらない人格」たちでした。
階段島での七草は悲観的な性格の持ち主で、真辺はとにかく真っ直ぐな性格を持ちます。階段島にいるということは、現実世界の自分自身がこの性格を「いらない性格」と感じたわけですね。
実際に悲観的な性格を直したいと感じる人は多くいると思うので、七草の悲観的な性格が階段島にいることは理解できます。ただ、真辺の真っ直ぐな性格が階段島にいるのはなぜなのか、ハッキリ理由はわかりませんでした。
とは言っても、階段島にいる真辺は真っ直ぐな性格すぎるあまり、自分勝手でおっせかいすぎる部分もありました。現実世界でも、真っ直ぐな性格が原因で誰かを傷つけてしまったのかもしれません。
仮に、いじめられている人を真っ直ぐな正義感で助けたと思っても、「何で私を助けるの!これがきっかけでさらにいじめられてしまう」と、相手からしてみれば迷惑なこともあります。他にも、電車でお年寄りに席を譲ろうと声をかけると高圧的に断られてしまうなんてことも実際にあります。
一般的にも正しいことだとしても、人によってはその行為が迷惑に感じられることもるので、そういった出来事を受けて、真辺の「真っ直ぐすぎる性格」は階段島に来てしまったのでしょう。
【考察】階段島にいる理由を見つけて現実世界に戻ったとして、記憶はどうなる?

階段島を出るには「失くしたものを見つける」必要があります。
失くしたものが「自分自身の人格」だと気づき、現実世界に戻ったとして、現実世界の自分に階段島の記憶が引き継がれなければ、また階段島に戻って来てしまう気がするのですが、記憶は引き継がれるているのでしょうかね。
実際、生きていく上で自分の性格を変えたいと思う人は多いです。例えば「人の目を気にしてしまう性格」が嫌だと思う人がこの性格を変えたいと思った時に、この「人の目を気にしてしまう」という「いらない人格」は階段島にいくことになります。
初めは人の目を気にしないようにしていたとしても、人間はそんな簡単に変わることはできませんから、ふとした時に「変わったと思ってたけど、まだ人の目を気にしている…」と、自分の性格が変わっていないこと(変われていないこと)に気づくことがあります。
これを「いなくなれ、群青」の物語に当てはめて見ると、「変わったと思ったけど結局変わっていない自分」に気づいた時、階段島からいらない人格が現実世界の自分に戻っていることになります。
では、その後の自分がどうなるかと考えると、階段島の記憶が引き継がれていないのであれば、また「人の目を気にしない自分になろう」と感じると思うんですよね。そうすると、いらない人格はまた階段島にいくことになります。性格が本当に変わるか、性格は変わらないものだと諦めることでしか、この無限ループから抜け出すことはできないような気がしました。
映画の中で真辺は「私は、現実の私たちが間違っているんだって証明する」と言っていました。
これは自分の欠点だと思っている「いらない人格」も含めて、自分自身であるという言葉だと受け止めました。自分の良い部分も悪い部分も含めて一人の人間であるという意味だと思うのですが、もし答えを見つけて現実世界に戻ったとしても、記憶が引き継がれていなければ証明することは難しいと思うんですよね…。
【考察】エンドロール後に真辺が戻って来たのは何故?現実世界?
「いなくなれ、群青」はエンドロール後にわりと重要なシーンがあるので、最後まで席を立たない方が良いですよ。近くの席にいたおっちゃんがエンドロール後の映像を見ずに退席していたので、もったいないなぁと感じてしまいました。
映画のラストで七草は階段島に残り、真辺だけを現実世界に帰しました。そして、エンドロール後の映像では再び七草と真辺が再会します。
「え、また階段島に戻って来たの?自分の意志で戻れるの?」なんて思いましたが、映画のレビューをみてみると、「エンドロール後の映像は現実世界の七草と真辺ではないか」といった内容のレビューをみました。
その発想はなかったですし、あの映像からはそういった捉え方をすることもできます。エンドロール後の映像では、確か七草から真辺に握手を求めていたと思うんですよね。(間違っていたらごめんなさい!)
階段島の七草は別れを惜しむかのように真辺を現実世界に帰しました。エンドロール後の映像が階段島であったら、七草から握手を求めることはしないと思うんですよね。自分から握手を求める七草は堂々としていて、悲観的な性格とは程遠い気がしたので、現実世界を描いていた可能性は考えられます。
ただ、エンドロール後の七草は「戻って来たの?」的なセリフを言っていたと思うので、あれが現実世界だとすると、自分の意志で階段島に「いらない人格」を送ったことになりますよね。
そう考えると「やっぱり階段島での出来事なのかな?」なんて思ったりもしますが、どちらの世界として捉えるかはあなた次第という終わり方は良いなと思いました。
【解説】魔女の正体は誰?魔女は郵便屋のお姉さんで娘が堀さん?

結局、魔女の正体は郵便屋のお姉さんでしたね。七草が魔女ではないか?と怪しんでいましたが、実際にそうだったのですね。
そして、豊川が過去の嫌な記憶を克服してバイオリンを演奏した後、堀が耳元で何かをささやき、その次の日に豊川が階段島にいなくなるというシーンがありましたが、エンドロール後に郵便局のお姉さんと堀がいたことから、堀は娘か妹であることが想像できます。
でもあの時、豊川に何をささやいたのかは分かりません。豊川も階段島にいることから、現実世界の豊川の「いらない人格」であることは間違いないですし、過去にバイオリンの弦が切れたトラウマを持っているので、階段島にいる豊川は「挑戦できない性格」であることが予想できます。
しかし、人前でバイオリンを弾いたことで「挑戦できない性格」から脱することができました。そこで堀は豊川に対して「克服することができたね。もう帰って大丈夫だよ」的なことをささやいたのかもしれません。
そういった意味では、階段島は「いらない人格」の自分を変えてくれる更生施設のような場所であり、この階段島や魔女はそれを手助けしてくれる存在ともとれますね。
ピストルスターの話は良かった

屋上でナドとの会話の中で、ピストルスターの話がありました。ピストルスターが地球からはかなり離れているため光が見えることはありませんが、調べて見ると太陽の160万倍の光度を持つそうです。
七草は真辺のことをピストルスターに例えていて、ピストルスターのように光が見えなくてもどこかで光り、照らし続けてくれているだけで良いと話していました。
愛を伝える時に「一生一緒にいてほしい」なんて言葉がありますが、これとは真逆の言葉です。近くにいなくても良いから、どこかで光り続けてほしい(存在し続けてほしい)ということですからね。好きすぎるあまり、どこでも良いからとにかく生きていてほしいという気持ちは理解できるようで、それなら近くで生き続けてくれてた方がもっといいんじゃないか?とも感じました。
これは階段島にいる「悲観的な性格」を持つ七草だからこその考えなのかもしれません。ずっと隣にいてほしいと言いたいけれども、それはさすがに重すぎるか…と悲観的な想像をして発した言葉であって、心の中にはずっと近くにいてほしいという気持ちがあったのかもしれません。
個人的には青春映画というジャンルが当てはまる
「いなくなれ、群青」は七草と真辺という二人の主人公を主軸にしながらも、佐々岡や豊川など、他のキャラの心の内が描かれています。
物語としては「謎の島を舞台に脱出する生徒たち」を描いた作品ですが、答えを探す中で仲間たちと協力し、作用しあって成長していく様子は青春映画そのものでした。
青春やミステリー、ファンタジー、ラブストーリーなど、様々な要素を含んだ映画を見たい方にはオススメの作品です。