『ビューティフル・デイ』は、2018年公開されたスリラー映画です。ジョナサン・エイムズという作家の短編小説が原作となっています。
本作は第70回カンヌ国際映画祭に出品され、上映後に7分ほどスタンディングオベーションが起こり大きな話題となりました。さらには男優賞と脚本賞を受賞し、批評家からも大きな評価を得ています。
そんな話題の映画である『ビューティフル・デイ』ですが、この記事では本作の個人的な感想や解説を書いていきます。ネタバレを含む内容となっていますので、映画を未視聴の方はご注意ください。
目次
映画「ビューティフル・デイ」を見て学んだこと・感じたこと
・無駄な描写がなく、五感で訴えかけてくるような映像と音楽
・名作『レオン』や『タクシードライバー』を彷彿させる内容
・主人公たちの長い絶望の日々から見出した希望に感動する
映画『ビューティフル・デイ』の作品情報
公開日 | 2018年6月1日 |
監督 | リン・ラムジー |
脚本 | リン・ラムジー |
出演者 | ジョー(ホアキン・フェニックス/綱島郷太郎) ニーナ・ヴォット(エカテリーナ・サムソノフ/竹村知美) アルバート・ヴォット州上院議員(アレックス・マネット) ジョン・マクリアリー(ジョン・ドーマン) ジョーの母(ジュディス・ロバーツ/小若和郁那) |
映画『ビューティフル・デイ』のあらすじ・内容
ジョーは行方不明の女児を探す仕事をしながら、介護が必要な母親と一緒に暮らしていました。ある日、ジョーの雇い主であるマクリアリーからある仕事を受けます。その仕事は、アルバート・ヴォット州上院議員の娘を探してほしいとの依頼でした。
ジョーはニーナ捜索の依頼をすぐに承諾します。なぜジョーがこの依頼を受けたのかというと、過去に人身売買をされている女性たちを救えなかった過去があったからです。
ジョーはニーナが売春宿にいることを突き止め、殺人を犯しつつもニーナを救出します。しかし、ジョーはニーナを連れて帰る途中、ヴォット州上院議員が自殺してしまったことを知りました。困惑するジョーですが、そこにニーナを狙う男たちが現れて…。
映画『ビューティフル・デイ』のネタバレ感想
【解説】「レオン」や「タクシードライバー」を彷彿させつつも全く新しいフィルムノワール
「ビューティフル・デイ」を鑑賞した時にまず思ったのは、名作である「レオン」「タクシードライバー」に近いものがあるなということです。「レオン」や「タクシードライバー」と言えば、フィルムノワールとして真っ先に名前があがりやすい作品ですよね。
特に「レオン」に関しては、「ビューティフル・デイ」の登場人物と非常に近いところがあります。訳ありの男が少女と出会って変わっていくというのは、「レオン」も「ビューティフル・デイ」も同じです。「ビューティフル・デイ」は「レオン」や「タクシードライバー」などのフィルムノワール作品に非常に影響を受けている作品かもしれません。
とは言っても、本作は「レオン」を単純になぞった作品ではなく、むしろ従来のフィルムノワールの中でも異質を放つ作品に仕上がっていると感じました。本作はあらすじだけ聞くと、どこかで見たことのあるような話です。話自体は、観客の意表をつくような斬新なシナリオではありません。
しかし、従来の作品にはない独特な魅力を本作は秘めています。五感に訴えかけるような音楽と映像、派手さはないが引き込まれるような描写の数々。本作は、単純に一言では表しきれないほどの繊細さと奥深さがある作品だと思います。
「ビューティフル・デイ」は、「レオン」のように男がカッコよく映るような映画ではありません。ジョーは中年男性ですし、体も引き締まっているわけではありません。そして、本作のメインキャラクターであるジョーとニーナの心情や振る舞いは、どこか壊れていても美しさを感じるものになっていました。
ジョーとニーナは、すでに一般的な人間とは相容れないほど精神が歪んでしまっていますが、その絶望している様子が静かに淡々と描かれています。しかし、そのような登場人物の絶望を描く描写は、決して単純なものではありません。複雑さと繊細さ、そして美しさを兼ね備えている芸術的描写と言えます。本当に言葉では表しきれない、まさに映像だからこそ到達できた描写だと感じました。
「ビューティフル・デイ」は解釈の多くを観客に委ねるタイプの映画ですが、決して複雑だったり意味不明なわけではなく、シナリオ自体はシンプルです。しかし、その映像の濃度は非常に高く、言葉でうまく表現するのが難しいんですよね。
【解説】セリフは少ないが音楽と視覚で刺激される
「ビューティフル・デイ」はセリフが少ない映画ですが、その分音楽や映像に力を入れていて、五感に訴えかけるような映画となっています。セリフが少ないので、登場人物の過去やシナリオの展開を理解するのが難しかったという方もいるかもしれません。
ですが、このようなノワール的な映画では、長ったらしいセリフはかえって映画に適していません。何故ならジョーやニーナのような重い過去を背負っている人物に、自分の過去などをベラベラと喋らせるのはどこか違和感を感じてしまうからです。
セリフが多くなることで映画自体の雰囲気にも馴染みませんし、興ざめしてしまうこともあるでしょう。では、どこで観客にシナリオや人物の背景を語らせるかといえば、映像と音楽で情報で語っているのです。
例えば、ジョーの過去では詳しくは内容は語られませんが、PTSDの影響によるフラッシュバックでジョーの過去が断片的に映ります。これだけでも、ジョーがどのような過去を体験してきたのかが、大雑把に理解することができますよね。
さらにフラッシュバックによる記憶の演出も、まるでジョーと同じように記憶を追体験しているかのような没頭感がありました。これにより、わざわざ言葉で語らなくてもジョーの過去は想像できますし、より観客が映画に没入して楽しむことができるでしょう。本作は、言葉よりもそのような没入感の方が重要なのだと思います。まさに作品の雰囲気に合った演出でした。
さらに作中に流れる明らかに大きすぎる音楽は、観客の耳から不安を掻き立てたり、興味を惹かせます。音楽によって耳からは入ってくる情報は、頭で考えなくても自然と映画の雰囲気を味わうことができますからね。
実際に映画映画を鑑賞している時は、一体ジョーはどのような過去を持ち、ニーナには何があったのかを知りたいという欲求が自然と掻き立てられました。そのため、能動的に映画を鑑賞することができ、映画の世界に浸ることができます。うまく情報を省略してき単調に映画の内容を語るのではなく、視覚と聴覚に訴えることで、本作は無駄のない洗練された作品に仕上がっていると感じました。
【考察】ジョーとニーナの暴力について
「ビューティフル・デイ」の暴力は語る部分が多いと思います。何故なら描写されている暴力には、人物の欲求や決意が描かれているからです。
ジョーの暴力は他人にも自分にも向けられています。自分に対する暴力とはジョーの自殺未遂のことです。作中では何度もジョーは自分に対して、危険な行為を繰り返していました。ビニール袋で窒息死しようとしたり、ナイフを自分の口に入れたりするところが、その危険な行為に当たります。
一方で、ハンマーで相手の頭を叩き割ったりするという過激な暴力もありました。
ジョーがハンマーを振るう理由というのは、間違いなくニーナを救うためです。そして、ニーナを救うことはジョーにとっての救いでもあります。ジョーは過去にFBIで売春をしている女性たちを救えなかった過去がありましたが、ジョーはその過去もあってニーナ救出に積極的にハンマーを振り回しているのです。ニーナを救うということは、過去のトラウマからジョー自身を救い出すという意味も込められているのだと思います。
普段のジョーの暴力は、自分自身を消し去ろうというものですが、ニーナを救おうとしている時の暴力は自分を救うためでもあるのです。つまり、ジョーがハンマーを振り回しているのは、彼自身の生への欲求が込められており、ハンマーを振り回すジョーの姿は、自分を死から救い出そうとする必死な叫びでもあったわけです。
ニーナの暴力もジョーと同じように、彼女の決意が秘められています。ニーナの暴力はラスト付近でウィリアムをナイフで一閃したところのみですが、この描写だけでも様々な考察ができると思います。
ニーナがウィリアムをナイフで喉を切り裂いたシーンはありませんが、シナリオの展開からニーナがウィリアムを誘惑して殺害したということは容易に想像できますよね。つまり、ニーナはジョーのように本能で行ったわけではなく、始めから計画してウィリアムを殺害しようとしていた可能性があります。衝動的に殺害したのではなく、計画的ウィリアムを殺害したからこそ、あの食事のシーンも意味を持ち始めるのです。
ニーナがウィリアムを殺害した後、返り血も拭かずに食事をしているのは、ニーナが人を殺してでも生きていくという決意の表れなのではないでしょうか。何事もなかったかのように平然と血だらけで食事をしている彼女の姿は、まるで全てを受け入れているようでした。血で汚れてしまった純白のドレスを着ながらの食事は、彼女が純粋さを失い、罪を受け入れたという意味とも考えられます。そのことから、ニーナの暴力と食事の場面は、人殺しという罪を背負ってでも生きるという、ニーナの決意を表しているのではないかと思いました。
このように「ビューティフル・デイ」で描かれる暴力には、様々な意図が込められた芸術的な暴力性があると思います。他にも違った見方もすることができると思いますので、再度鑑賞する時は意識してみると、新しい発見があって面白いかもしれませんね。
【考察】原作のタイトルである『You were never really here』について
「ビューティフル・デイ」の原作は、ジョナサン・エイムズの短編小説である『You were never really here』です。この原作のタイトルの意味を直訳すると、「あなたは決してここにはいなかった」という意味になります。
原作のタイトルである『You were never really here』と、本作の映画のタイトルである「ビューティフル・デイ」というタイトルが違うことは気になりますよね。個人的な解釈ですが、映画では希望を強調したかったのではないかと思っています。
ジョーとニーナはずっと暗闇の中で苦しみながら生きていて、ある種の諦めすら感じられるような絶望の中にいました。しかし、ジョーにとってはニーナを救うことが、希望になっています。ジョーはニーナによって、生きていることを実感できているのです。
そして、ニーナがいない世界はジョーにとっては無価値も同然。ニーナがいないとジョーは生きているという実感も得られないのです。だからジョーという存在は、ニーナと出会う前は「ここにはいない存在」であると言えると思います。体は生きてはいるけど、心は死んだような存在。原作のタイトルである『You were never really here』はこのようなところから付けられているのだと思います。
では、映画のタイトルは何故「ビューティフル・デイ」となっているのでしょう。それは恐らく、ニーナと共に生きるようになったジョーは、ようやく本当の意味で生を実感できるようになったからだと思います。ジョーにとっては、ニーナとの出会いはまさに自分が復活したような日々です。血塗られていますが、まさしくジョーにとっては復活の日のようなものでした。
もちろんそれはニーナにっても同じであり、彼女もジョーに出会い、ジョーに救われることで人生に希望が持てるようになりました。2人にとって、まさにあの日は希望に満ち溢れた美しい日であったのです。
原作のタイトルでは絶望の中にあった過去を意識して『You were never really here』。これは、ちょっとネガティブなイメージで捉えることができます。ですが、映画では希望がもてるような『ビューティフル・デイ(美しい日)』。これは、原作よりも明るく希望を感じられるようなタイトルだと思います。
これらのことから、映画ではより希望を強く描きたいと意図し、「ビューティフル・デイ」というタイトルに変更したのではないでしょうか。実際に映画を見終わった時に、原作のタイトルの意味と映画のタイトルの意味を比べると、少し救われたような心地になりました。タイトルの違いに意識して再度映画を鑑賞すると、また違った印象を持てるかもしれませんね。
【考察】ラストシーンから見る2人の関係は?
「ビューティフル・デイ」のラストシーンはハッピーエンドでもバッドエンドでもどちらでもないように感じました。解釈は観客に委ねられるような終わり方でしたが、個人的には作品に合った余韻の残る終わり方だったと思います。そして、個人的な解釈ではジョーとニーナの絶望は消えないが、お互いの存在が残ってることで希望が残っていると感じました。
ラストシーンでは、ジョーが拳銃で自殺する幻覚を見ています。これは、ニーナが無事だったとは言え、ジョーに残るトラウマが消えるわけでもなければ、ジョーの自殺願望が消えていないことを表しているのでしょう。
その幻覚からジョーを呼び覚ましたのはもちろんニーナです。この描写は自殺しようとしているジョーの命をニーナが繋ぎ止めていると解釈できると思います。絶望の中でしか生きていなかったジョーにとっては、まさに生命をつなぐ存在とも言えるニーナはまさに希望そのもの。お互いにとって、なくてはならない存在です。
そしてニーナは「今日はいい天気よ」とジョーを外の世界に連れて行き、誰もいなくなった席をバックに、映画のエンドロールを迎えます。ジョーはニーナを救うつもりでいましたが、本当はジョーがニーナに救われたのかもしれません。ニーナもジョーに救われたとは思いますが、どちらかというとジョーが救われたという方が印象に残ります。
しかし、ジョーの自殺願望は消えたわけではありません。未だに彼の願望は残っていますが、ニーナがジョーを救ってくれています。ジョーのトラウマや絶望は決して消えることはなく、ジョーにとってはようやく自分の人生に光が差し込んだようなものです。
最後の誰もいない席は、ジョーが自殺したいと思っている幻覚の世界の後かもしれません。その世界からニーナはジョーを連れ出してくれたのです。ジョーが幻覚として見る自殺願望が入った世界は、ジョーにとって消えることはありませんが、ようやくその世界から出ることができたのでしょう。ラストの演出はそのように解釈することもできるのではないかと思います。