『英国王のスピーチ』はトム・フーパー監督によるドラマ映画です。
ニッチな歴史映画かと思いきや、今の日本人もきっと共感できる名作でおすすめです。
今回はそんな『英国王のスピーチ』の個人的な感想やネタバレ解説を書いていきます!
目次
映画「英国王のスピーチ」を観て学んだ事・感じた事
・誰だって生身の人間。たとえ王様でさえも
・気合や昔ながらの方法にとらわれてはいけない
・人前に出るのが苦手な人、肩書きにコンプレックスがある人に観て欲しい
映画「英国王のスピーチ」の作品情報
公開日 | 2011年 |
監督 | トム・フーパー |
脚本 | デヴィット・サイドラー |
出演者 | ヨーク公アルバート王子(コリン・ファース) ライオネル・ローグ(ジェフリー・ラッシュ) エリザベス妃(ヘレナ・ボナム=カーター) エドワード8世(ガイ・ピアース) ジョージ5世(マイケル・ガンボン) |
映画「英国王のスピーチ」のあらすじ・内容
20世紀前半、「世界の工場」としての絶頂期が過ぎつつあったイギリスに、ジョージ五世の次男・ヨーク公アルバートという王子がいました。
彼は吃音症(きつおんしょう)を患っており、人前でまともに話すことができません。ある日、彼は妻の紹介で言語療法士のライオネル・ローグの元へ行くことになります。ライオネルは王族を王族と思わないような曲者ですが、この出会いが吃音症克服の大きなきっかけでした……。
映画「英国王のスピーチ」のネタバレ感想
明かされなかった、百年前の実話
『英国王のスピーチ』は、第二次世界大戦前後に実在したイギリス国王ジョージ六世と言語療法士ライオネルを題材にした映画です。確実な史料をもとに造られており、その出来栄えにはジョージ六世の娘であるエリザベス二世も満足したということですから、徹底していると言っていいでしょう。
製作に当たって、ジョージ六世の治療記録と、ライオネルとの手紙が大きな手掛かりになりました。これらにはジョージ六世の妻が、妻自身が生きているうちの公表を拒んでいたものも含まれています。言ってみればそれだけ新鮮で、かつ個人的な情報も利用した作品なのです。歴史映画としての信頼性は並ではありません。
それでいて、イギリスの歴史についての前知識が全くなくても観ることができるのが素晴らしいポイント!今となっては歴史上の人物ながら、本当は生身の人間であったジョージ六世の内面にクローズアップすることで、「現代にも普通にいそうな人の葛藤」だけで惹きこむことに成功しています。ゆえに背景知識を気に掛ける必要がなく(あったらあったで感心できますが)、歴史映画なのにかなり気軽に観ることができます。
とにかく現代にも十分通じる面白さを確保した構成が実に見事!吃音症や無責任な兄、ヒトラーといった困難に立ち向かう、ジョージとライオネルの奇妙な友情……。日本人にも無理なく伝わる面白さが、『英国王のスピーチ』には詰まっています。
【解説】そんなにスピーチって大事?
いまの日本でも、国会議員選挙なり県議会議員選挙なりの前には、候補者があちこちで街頭演説をしていますよね。あれをどれくらいの有権者が聞いているのかはなんとも言えませんが、ある程度の効果が得られるから続いているのでしょう。
では二十世紀初頭のスピーチは、今の日本の議員のスピーチと同じだったのか?というと、似て非なるものだと言った方がよいでしょう。なぜならそのころの指導者のスピーチは、国全体の力を左右するほどの力を持っていたからです。
少し時代をさかのぼりましょう。かのナポレオン・ボナパルトは、十九世紀のフランスに数々の戦勝をもたらしました。勝因はいくつかありましたが、一つにはフランス全体を団結させ、一体化した国の力を利用するのが上手かったことがあります。国民全員がまとまると、バラバラに戦うより何倍も強くなるのです。ナポレオンはその力を歴史上初めて世界に示した男でもあります。
ナポレオンはその後没落しますが、「国全体がまとまればまるでスーパーサイヤ人のように強くなれる!」という事実は残りました。そしてフランス以外の国も、全体をまとめようとするようになります。
人をまとめ上げるには強力なリーダーが必要で、誰もがついて行きたくなるようなリーダーには国民を鼓舞するパワフルな言葉が求められます。そしてパワフルな言葉を発する場こそ、スピーチに他なりません。ゆえに当時のスピーチは、国としてのパワーを決めるほどの力を持っていたわけです。
事実あのヒトラーも、スピーチがべらぼうに上手かったがために国民の心を掴み、第一次世界大戦の敗戦国だったドイツの力を膨れ上がらせました。また、第二次世界大戦開戦後にイギリスを指導したウィンストン・チャーチルも、巧みな言葉づかいでイギリスを守り抜いています。
こういった事情から、国王のスピーチも重要とされていました。あくまで政治家であるヒトラーやチャーチルと違い、ジョージ六世らの王族はスピーチ力に関わらず国のリーダーとして君臨しています。それでもリーダーとしての言葉は熱く求められていましたからね。
コリン・ファースの吃音症の演技が見事
本作の特徴的な要素が、主人公が患っている吃音症です。冒頭を観るだけで一目瞭然なのですが、この障碍ゆえにジョージ六世はうまく話すことができませんでした。まったく声が出ないわけではなく、親しくない人に話したり、言いにくい言葉を使ったりする際にものすごくどもってしまうのです。状況次第で喋れたり喋れなかったりするわけですね。難聴というわけでもなければ、手話が必要になるわけでもありません。
感情などによって叫んだり突っかかったりする分、本作の主人公役にははるかに高度な理解と演技力が求められています。まったく喋れない状態とはワケが違いますよね。そんな難しいキャラクターを、コリン・ファースが文句なしに演じ切っています。時にどもり、時に呟き、時に語りかけ、時に叫ぶ……「もしかして同じ障害を抱えた人を登用したのかな?」と思わされるほど、板についた名演を見せてくれます。
もしファースの演技に少しでも違和感があったなら、本作の説得力は半減していたでしょう。上でジョージ六世の内面にクローズアップしたと述べましたが、もし内面に魅力を感じられなかったら、映画全体からも魅力がなくなっていたはずですからね。
大勢の国民を前にして緊張しているとき、娘たちに語りかけるとき、無責任な兄をいさめるとき、ライオネルに自分の弱さをこぼすとき、重圧に涙を流すとき……さまざまな「吃音症のヨーク公アルバート / のちのジョージ六世」の描き分けは必見です!
1930年代のイギリスにある時代の暗さを感じさせない
王の内面に着目したことのすごさは、それだけではありません。焦点を絞ることで、1930年代のイギリスから連想しがちな重い雰囲気を退けることにも成功しています。通常ならもっともっと絶望的になりそうな情勢を、どこか滑稽にしているのです。
では、1930年代とはどのような時代だったのでしょうか?これを理解するキーワードは二つあります。
一つはそのまま「大英帝国」です。元々イギリスは領土内の資源が少ないため、対外活動によって利益を上げようとする動きが活発でした。さらに世界で初めて産業革命を起こしたこともあって、世界中にイギリスの商品を売り込むことで莫大な富を築いていました。最も繁栄していた十九世紀後半は「イギリスの時代(パックス・ブリタニカ)」と呼ばれていたほどです。
しかし二十世紀に入ると、少しずつ勢いがなくなっていきます。国が繁栄するには安い労働力が必要ながら、これが確保しにくくなっていったからです。イギリス内の労働者はどんどん権利を求め、インドなどの植民地は独立を求め……といった動きに連動して、イギリス全体の力は削がれていきました。
そこに、第一次世界大戦が追い打ちをかけます。イギリスは戦争には勝ったものの被害は甚大でした。しかも勝つためにアメリカから多額の借金を負っていたため、儲けが上がらなかったのです。稼いでも稼いでも、アメリカに流さざるを得ない状況……。20年代には、イギリスの停滞はハッキリしたものになっていました。30年代は言わずもがなです。
もう一つのキーワードは「世界恐慌」です。1929年10月、ニューヨーク株式市場の株価の暴落をきっかけにして、世界中を不況が襲いました。イギリスも例外ではありません。イギリスとその植民地(イギリス連邦)以外の商品を排除すること(ブロック経済)で被害を軽減はしましたが、それでもダメージは受けました。経済的損失は免れなかったのです。
そしてこの世界恐慌をきっかけに、ドイツでヒトラーが勢いを増す、日本が国際連盟を脱退するなどの事件が相次いで発生し、国際情勢はみるみる悪化していきます。そして最終的には第二次世界大戦へと繋がっていきます。そんな30年代が明るいはずはありません。
しかし『英国王のスピーチ』は、こういった国際的・経済的な問題を無理のない範囲で回避しています。それゆえに、時代設定に反してどこか軽妙で愉快な作風を確保できています。「写実的・庶民的ではない」と言われればそうかもしれませんが、21世紀の民間映画ですから大した問題はないでしょう。むしろ、既存のイメージに捕らわれない雰囲気づくりがスゴイ、と褒めるべきではないでしょうか。
障碍者対応の正しい形かも?
ジョージ六世を主人公にしたことの影響はまだあります。それは、広い目で見れば本作が障碍者を主人公にした映画であるということです。
なにもそれ自体に価値があるということではありません。なんらかの障碍をもった主人公というだけなら、すでにいくつも前例があります。『ダンサー・イン・ザ・ダーク』なり『フォレスト・ガンプ』なり、最近であれば『シェイプ・オブ・ザ・ウォーター』も、主人公は健常者とは言えないでしょう。
『英国王のスピーチ』が特徴的なのは、主人公の障碍に正面から向き合って、それを克服しようとすること、またその経過をコメディにしていることです。「マイノリティのマイノリティたる特徴を笑っていいのか?」という問題は非常にデリケートですが、誰にでも身近なことです。
少し前ですが、トレンディエンジェルの斉藤さんが「ハゲはもう自らネタにしてしまって良い」といった趣旨のことを言っていました。またNHKでは、『バリバラ』という番組で障碍者が自ら笑いのネタを提供したりしています。どちらも鵜呑みにしていいのかは微妙なところですし、また私たちの手の届くところにいるマイノリティの方が同じように思っているかもわかりません。しかし、「欠点を笑いのネタにしよう!」という動きは、大なり小なりあるのは確かです。
その動きの具体的な例が、本作で描かれているのかもしれません。劇中のジョージ六世のように、「おまえ下ネタならどもらないやんけ!」などと笑うのが社会の正しいカタチ……かもしれません。もちろん複雑な問題なので、これからもたくさんの人が考える必要がありますけどね!
【ネタバレ解説】どうしてライオネルは否定されがちなの?
万博でのスピーチが上手くいかず、何をやっても症状が改善しないために諦めかけていたジョージ六世が最後に頼ったのが、ライオネル・ローグという男でした。最終的に彼の実力は確かであったことが明らかになりますが、映画では終始「信用に足らない男」として扱われています。どうしてでしょう?
一つには、序盤から表れているように独特の治療法を用いていることがあるでしょう。当時のイギリスでの同業者と同じ手法で優劣を競うのではなく、まったく別の手法を取っていたために仲間外れにされていたことは間違いなさそうです。
劇中で説明されていない部分で言うと、ライオネルがオーストラリア生まれであることも原因になっていると思われます。そもそもオーストラリアは、1770年にイギリス人の探検家によってイギリス領となった後、1788年に流刑植民地とされた場所でした。言い換えれば、犯罪者が罰として島流しに遭う土地がオーストラリアだったのです。そのため、オーストラリアは下層民の掃き溜めのようなイメージを持たれていたことは否めません。英語の訛りも、品がないものと見なされがちです(劇中でも、ライオネルがその訛りゆえに演劇でコケるシーンがありました)。
なお、1850年代からは金鉱が発見されたことで、移民の流入が増えています。劇中の1930年代でも前科者ばかりがいたわけではありません。しかしながら、一度ついたイメージはなかなか拭えないということでしょう。劇中でも一度「未開の地から来た横柄な田舎者」などと呼ばれたりしていました。不当な差別意識です。
他には、終盤で明かされるように、実はライオネルがドクターでなかったという事実も関係しているでしょう。終盤、彼には療法士としての研修経験も証書も資格もないことが判明します。最終的にジョージの判断で不問となりますが、あわやかかりつけを辞めさせられるところでした。つまるところ、都会のお偉いさん好みの出自が、ライオネルには無かったということですね。
【ネタバレ】いじめや厳しいしつけに王族も苦しんでいた
実父であるジョージ五世の死、そして身勝手な兄エドワード八世の即位にショックを受けたのでしょう。アルバート王子はそれまで隠していた自分の過去を、ライオネルに話すようになります。幼い頃のアルバートは生来の左利きとX脚を矯正させられ、乳母からも虐待を受けていました。さらに、可愛がっていた弟も若くして死んでしまいます。そういったトラウマから吃音を発症してしまったようです。それを兄からからかわれたことで、さらに悪化したような節もあります。
話が前後しますが、生前のジョージ五世は40代になったアルバート王子にも厳しい態度をとっていました。いつまで経ってもどもって喋れない王子に、「読むんだ!」などと怒鳴りながら原稿を無理やり読ませるシーンは特に象徴的です。王子が人前で話せるようになる必要があるという理屈はもっともなのですが、やり方は強引そのもの。王子の事情はお構いなしに、精神論でなんとかしようとします。
これらは一見アルバート王子の個人的な境遇の話のようですが、あまり他人事には見えません。むしろ、いまの日本の教育現場にも人知れず残っていそうな印象を受けます。大人の都合で子どものクセを無理やり歪めたり、出来の悪い子どもに適切なメソッドを与えず、気合でなんとかさせようとしたり……。それによって心を病んだり非行に走ったり、という姿が容易に想像できます。さすがに偶然の一致だとは思いますが、非常に現実味があるのは確かです。
吃音症への理解を促すと同時に、アルバート王子の存在を身近に感じさせるあたりがよく出来ています。これも、上等な脚本たるゆえんと言えますね。
【ネタバレ考察】偉大になるって本当は怖い
1936年、兄は数か月で退位することを決め、ヨーク公アルバート王子はジョージ六世として王位を押しつけられます。そこでアルバートがどんな反応をするかというと、まったく嬉しくなさそうなんですね。本作の転換点にあたるシーンですが、もしかすると鑑賞者の世代によって共感できたり、できなかったりするかもしれません。しかしだからこそ、誰もが胸に留めておきたい事実が詰まっていると考えます。
尾原和啓『モチベーション革命』などの例を挙げるまでもなく、今の若者からは「出世したい」という欲が減少しています。出世せずともそこそこ幸せにやっていけると知っているためです。立場に伴って増える責任を嫌がる部分もあるでしょう。逆にニ、三上の世代になると、偉くなることへの渇望が強かったりします。責任が増えても見返りがあればよい、ということです。どちらが間違っているということはないからこそ、ジェネレーションギャップが生じる部分です。
細部の違いはありますが、ジョージ六世の苦悶はこのギャップの縮図のようにも取れます。本人は偉くなることに魅力を感じておらず、自分は偉くなるべきですらないとさえ思っています。しかし周囲の人間は彼に適性があると担ぎ上げるばかりで、なかなか彼の弱さに寄り添おうとはしません。劇中のジョージ六世には妻という理解者と、ライオネルという師がいたからこそ務めを果たすことが可能になりましたが、もしもこの二人がいなかったなら、彼は潰れていたかもしれません。
そう考えたとき、私たちの身近なところに、助けてくれる二人がいないジョージ六世のような若者がいる気がしてなりません。例えはた目からすれば適性があるような人でも、本人はデメリットしか感じていないかもしれない……。そんな認識のズレの可能性を、いつも頭の隅に置いておきたいものですね。
【考察】肩書きと本質は別物
すべて見終わってから考えると、本作は「立場や名目、肩書きへの向き合い方」というものが主軸になっているのだと思わされます。主人公は国王・王族という立場を非常に重く捉えており、それが責任感に繋がっています。
対照的に兄は軽んじており、個人的な恋愛を理由に退位までしてしまいます。当時のイギリス市民がこの退位についてどう思ったかまではわかりませんが、『英国王のスピーチ』の中では主人公と対比することで、なんとなく納得できる構図ができています。同時に主人公の誠実さが強調されているあたり無駄がありません。
では主人公の周りの人々はどうかというと、うっとうしいくらいに肩書きを重視しています。医者は「古代からの伝統的な方法」という名目を掲げたり、「爵位」や「協会の信頼」を重視したり。教会の司教もライオネルの目前で「他の適任者を紹介したのに」などと言ったり、経歴のある英国人をライオネルの代わりにしようとするあたり、著名な人間にこだわっているように見えます。
しかしライオネルだけは違います。彼にはこれといった肩書きもなく、それにこだわってもいません。他人のそれにも構わず、王族にさえ遠慮がありません。ライオネルにあるのは、演劇の経験とそれに基づいた吃音症治療の経験だけ。けれど、それゆえに確固たる能力と自信を備えています。
そしてジョージ六世の人生は、肩書きにこだわる人々から距離を置き、ライオネルに近づくことによって好転しました。長い間抵抗感を示してはいたものの、最終的には信頼することで大舞台でも成功を収めることができたのです。そこにはロマンもあり、反省をさせられるような部分もありました。
本作の登場人物のような王族や爵位持ち……はさすがになかなかお目にかかれませんが、何かすごそうな肩書きを持った人の言動や意見は、安易に信じてしまいがちです。大学教授であるとか、何かの専門家であるとか、どこぞの社長であるとかの人は、なんとなく正しいような気がしてしまいます。そういった人たちはそういった人なりの研究をしていると思いたいところですが、本当のところはわかりません。それらしいことを言って煙に巻いたり、騙そうとしたりしている可能性だって捨てきれません。
逆にライオネルのように、異端ながらも目覚ましい成果を上げる人だって、世の中にはいるはずです。しかし無意識のうちに、肩書きのない人の意見は軽んじてしまうこともあるのではないでしょうか。
もちろん大半の偉い人は、それに見合った能力があるのだろうと思います。またライオネルのように、能力がありながらも認められない人というのはそうそう居るものではないでしょう。もしいるならば、遅かれ早かれ認められてもらいたいものです。なんにせよ、他人の評価に踊らされて他者の本質を見誤らないようにしたいものですね。
【総評】英国王のスピーチは独特な魅力のある傑作!
『英国王のスピーチ』は不思議な作品です。歴史映画でありながら敷居の高さはなく、古臭さもありません。まぎれもなくイギリスの映画なのに、日本の精神論を皮肉っているようにさえ思えます。愛だの正義だのが語られるわけでもないのに、生きることにちょっと希望が持てます。それだけ脚本と主演が素晴らしく、ジャンルを問わない魅力を爆発させています。
大衆作品的な派手なアクションや綺麗なCGこそありませんが、強くオススメできる秀作です!
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