映画『沈黙 -サイレンス-』は「ウルフ・オブ・ウォールストリート」などで知られるマーティン・スコセッシ監督によるドラマ映画です。
日本人であってもなかなか意識しない、江戸時代のキリシタンの姿が勉強になる映画です。
今回は映画『沈黙 -サイレンス-』の個人的な感想や詳しいネタバレ解説を書いていきます!
目次
映画「沈黙 -サイレンス-」を観て学んだこと・感じたこと
・カトリック信仰の力強さを感じる。けど強さって何?
・拷問シーンがえげつない!覚悟してても目を背けたくなる
・幕府側の人間がちょっと悪く描かれすぎな気も
映画「沈黙 -サイレンス-」の作品情報
公開日 | 2017年1月21日 |
監督 | マーティン・スコセッシ |
脚本 | ジェイ・コックス マーティン・スコセッシ |
出演者 | セバスチャン・ロドリゴ神父(アンドリュー・ガーフィールド) クリストヴァン・フェレイラ神父(リーアム・ニーソン) キチジロー(窪塚洋介) 通辞(浅野忠信) 井上筑後守(イッセー尾形) |
映画「沈黙 -サイレンス-」のあらすじ・内容
1640年ポルトガルにて、イエズス会士セバスチャン・ロドリゴ神父とフランシス・ガルペ神父は、彼らの師であるクリストヴァン・フェレイラが日本で棄教したという噂を知ります。
師が棄教するはずはないものの、ただならぬことが起きていると悟った二人は、危険を顧みずに日本へ渡ることにします。
密航した長崎には、役人におびえる隠れキリシタン達が多数潜伏していて……。
映画「沈黙 -サイレンス-」のネタバレ感想
五十年前の超有名小説の映像化
本作は、遠藤周作が執筆した同名小説を映画化したものです。半世紀前に書かれた作品のため、読破したことのある方はなかなかいないでしょう。しかし、国語の教科書にも名前が載るくらいには有名で、影響力もあった小説です。
遠藤は純粋な日本人ながらクリスチャンでもあり、そのことを生涯考え続けていたとされます。日本で多数派となっている宗教は仏教や神道であり、どう見たってキリスト教は少数派にあたります。そんな中で日本人ながらにクリスチャンであったなら、なんらかの違和感がつきまとってしまうのでしょう。遠藤は生まれてすぐに洗礼を受けたのではなく、物心ついてから改宗したということもあって、ことさらにそれが強かったようです。
そんな彼が、自身の葛藤と向き合いながら執筆したのが、原作の『沈黙』でした。三百年以上前の日本で、キリスト教が弾圧されていたという過去に向き合いながら、「信仰とは何か?救済とは何か?」といったものに彼なりの回答をこめています。ゆえにキリスト教文学でありながら、ヨーロッパ人では絶対に書けない小説へと到達したのです。それまでにない考えであっただけに賛否両論が巻き起こりましたが、見方を変えればキリスト教の世界を揺るがすだけの力を持っていたということにもなります。
この原作に魅了された外国人の一人が、『タクシードライバー』などで知られるマーティン・スコセッシ監督でした。二十年以上に渡って機会を逃しながらも、映像化を諦めなかったというから驚きです。それだけの熱量のこもった本作、人生で一度は観るべきではないでしょうか。
ただし、物語を理解するためには、キリスト教や当時の日本に関する一定の理解が欲しいところ。以下で、それらについて簡単に解説します。……それと、鑑賞には生々しい拷問シーンから目を背けない覚悟も必要となりますので、ご注意を。日本ではなぜかPG-12(12歳以下は保護者の助言・指導が必要)の指定になっていますが、R-15(15歳以下鑑賞禁止)かそれ以上が妥当なところに思えます。
【解説】フェレイラやロドリゴは何をしに行ったの?
ロドリゴ、ガルペ、フェレイラといった劇中に登場するポルトガル人は、クリスチャンの中でもいわゆるローマ・カトリックに属しています。古代ローマ時代に成立したキリスト教は時代を経るごとに分裂していくのですが、それらのうちローマ教会を中心に存続していった宗派がこのように呼ばれます。
ローマ・カトリックは、中世にゲルマン人への布教を熱心に行ったことなどが原因で、西ヨーロッパ最大の勢力を誇っていました。しかし16世紀、このカトリックを揺るがす運動が発生します。マルティン・ルターが直接の原因となった、宗教改革です。ルターの言動によってヨーロッパのあちこちで教会への批判が爆発しました。そして教会よりも聖書に基づこうとするプロテスタントが発生し、その分カトリックは信徒を減らすことになったのです。
信徒の大幅な減少を問題視したローマ・カトリックは対策に乗り出します。ヨーロッパはもちろん、それ以外の国でも宣教を行うことで、勢力を回復しようとしたのです。これら一連の運動は対抗宗教改革と呼ばれ、一定の成功を収めました。印象的な髪型でおなじみのフランシスコ・ザビエルも、この対抗宗教改革の一環で1549年に来日しています。
そして劇中に出てきた司教たちも、対抗宗教改革の使命を持っています。ただしザビエル達とは、時代が変わっていました。フェレイラが来日したのは1609年、長崎で捕らえられたのは(映画冒頭にもあるように)1633年と、江戸時代に入ってからのことです。
ロドリゴとガルペが彼を追ってきたのはさらにその後、1640年という設定になっています。ザビエルが来日しておよそ百年が経った日本では、布教はおろかフェレイラの足取りを掴むことも、困難を極めました。
【解説】劇中の日本ってどんな感じ?
フランシスコ・ザビエル、ガスパル・ヴィレラなどといった、初期段階で日本を訪れた宣教師は、そこまで酷い迫害を受けていたわけではないようです。言葉の壁があったり、日本人側が仏教とキリスト教の違いを理解できなかったりといった問題はあったようですが、一部の大名が自ら入信するなど、ある程度の効果を上げることができていました。織田信長も比較的受け入れていたようです。
しかしいくつかの理由から、段々とキリスト教が受け入れられなくなっていきます。象徴的なのが豊臣秀吉の「バテレン追放令」で、名前通り外国人宣教師に強制退去を命じています。この命令そのものは不完全ではあったのですが、その後もさらに風当たりが強くなっていきます。
江戸時代になると、二代将軍秀忠がキリスト教禁止令を出します。三代将軍家光のときにはキリシタンが蜂起したとされる島原・天草の一揆が勃発したこともあって、弾圧はさらに激化します。ロドリゴとガルペがフェレイラを追ってきたのはこのころですから、日本でもっともキリスト教への迫害が強かった時代に来てしまったと言ってしまって良いでしょう。
そんな事情は知らなかったからか、あるいはフェレイラがよほど大事だったか……いずれにせよ、二人が大きな困難に見舞われるのは、わかりきったことでした。
【解説】どうしてキリシタンは辛い境遇に耐えられるの?
劇中の隠れキシリタンたちは、キリスト教が厳しく取り締まられていることを誰もが知っています。信仰を捨てなかったがゆえに、死んだ人がたくさんいることもわかっています。しかしながら(たとえ自分が拷問を受けていたとしても)棄教しない人ばかりです。なぜでしょうか?
これについては当時の農民が、教義をどのように解釈していたのかを判断する史料が乏しいため、確実なことは言いにくいです。ただ、それほど不思議なことではありません。というのは、キリスト教自体が度重なる迫害を受けて大きくなっていったからです。
古代ローマ時代に生まれたキリスト教は、イエスの生前も死後も、たくさんの人々から否定されてきました。しかし、その結果殺されることになっても、彼らはめげません。むしろクリスチャンの強さを示す殉教だとして、受け入れるほどでした。辛くても信じぬくことが、彼らの望みでもあったのです。カタコンベと呼ばれる地下墓所に隠れて信仰を続け、死ぬときは信仰を打ち明けながら死ぬ……そうやって大きくなっていきました。
こういった歴史や考え方・精神を、当時の日本人がどれほど持っていたかはわかりません。ただ、キリスト教の元々の性質を考えれば、あれほどの拷問があっても信仰を保ち続けることはありえるのです。
ホラー映画顔負け!現実的でぞっとする拷問
幕府にとって頭痛の種である隠れキリシタンたちは、とにかくあの手この手で棄教を迫られます。時に踏み絵で、時に買収で、時に拷問で……。根絶やしにするためならなんでもやると言わんばかりです。かといって皆殺しにしてしまえばその分年貢も減ってしまうので、そうするわけにはいきません。常にあくまで数人を、苦しめて殺していきます。
これらの拷問の様子を、『沈黙 -サイレンス-』ではまざまざと見せつけてきます。沸騰した温泉の源泉を浴びせたり、海岸に何日もはりつけにして放置したり……。わかりやすい武器や怪物によって一瞬でとどめを刺さない分、ぞわぞわとした恐怖がにじり寄ってきます。ゾンビやモンスターの類にはどうしてもフィクション性がつきまといますが、本作での恐怖は現実で十分再現できてしまう分、痛みが想像できてしまうのです。
それに伴う死体の映し方、悲鳴の聞かせ方も研ぎ澄まされているあたり、スコセッシ監督の腕前を思わせます。キチジローの妹(佐藤玲)やモニカ(小松菜奈)といった若い女性の叫び声などは、むせ返るような心地がしてきます。恐怖を見せつけることに多大な意義があるのは確かですが、それにしたって心をざわつかせるインパクトがすごいです。こういったところが本当に、覚悟の要る部分になってきます。
【ネタバレ】信仰心は強さ、だけど……
先述したように、熱心なクリスチャンは信仰のために命を投げ出し、殉教することをためらいません。そして今から三百年以上前には、それだけ信心深い人間が少なからず存在していました。『沈黙 -サイレンス-』の中には、日本の隠れキリシタンにもそういった人が一定数確認できます。
日本人のみならず、主人公セバスチャン・ロドリゴに同行した神父フランシス・ガルペ(アダム・ドライヴァー)も、非常に信仰が篤い人物として描かれています。信心深い故にローマ・カトリック的教義への頑固さを見せることもありますが、それも骨の髄までキリスト教精神が染み込んでいることの表れだと言っていいでしょう。場合によってはロドリゴと小競り合いになるほど、傾倒しています。
そんなガルペは劇中、迫害によって殺されゆく人々を目の当たりにします。居ても立ってもいられなくなった彼は、単身海へと飛び込んでしまいます。周りにたくさんの役人がいたこともあって、結局彼は隠れキリシタンたちを助けることもできず、自身も溺死してしまいます。ただの司祭には助けられないことなど判っていたに違いないにも関わらず、身を投げ出す……。それは、並々ならない精神的な強さがあってこそ出来ることでしょう。
しかしクリスチャンと言えど、誰もが進んで殉教するような強さを持っているわけではありません。隠れキリシタンの中にも、役人の人質になることをすんなり受け入れる者もいれば、我が身可愛さに拒み続ける者もいました。映画の中で登場したわけではありませんが、踏み絵を踏みつけて棄教した人間も、決して少なくはありませんでした。
そして、主人公のロドリゴも、そうした弱さをかなり抱えた人物です。ガルペと同じイエズス会の神父である以上、ロドリゴも濃厚で正当なローマ・カトリックの精神を受け継いでいるに違いありません。けれど物語が進むごとに、信仰よりも人の命を尊重しようとする傾向が見え隠れします。過酷な逃亡生活を続けるうち、神やイエスの存在さえ疑いだす始末……。
筆者に悪く言える義理は(クリスチャンでもないですし)かけらもありませんが、殉教していった人物に比べるとどうしても弱いと言わざるをえません。
ただ、弱いということは果たして悪なのでしょうか?少なくとも『沈黙 -サイレンス-』の中では、弱さが生命の維持に直結しています。逆に力強く信仰を守った者ほど、死に急いだり、殺されずに済んだはずの命を失ったりしています。頑なに信じ続けることは、果たして正しいのでしょうか?ロドリゴとカルペの師であるフェレイラの選択も含め、そこが物語の大きなテーマとなっています。
【ネタバレ】あなたはキチジローを許しますか?
秘密裏に密航した主人公たちは、はじめ隠れキリシタンたちに匿われたことで難を逃れます。しかし最終的には村を追われることになり、中盤になるとキチジローという男の裏切りによって役人に捕まえられてしまいます。その後ロドリゴが役人と対話してからが、物語の佳境になります。
このキチジローという男が、本当にどうしようもありません。冒頭では酒を飲むばかりでやさぐれているわ、故郷に帰れると知るとロドリゴたちにすがりつくわ、長崎に着くと忽然と消えるわ……とはじめの十数分だけでもみっともなさが溢れています。
さらに、実は命惜しさから棄教していたことも判明します。家族たちはみな殉教したにもかかわらず、一人だけ踏み絵を踏んで、生き残っていたのです。かといって自分の弱さに耐えることもできておらず、ロドリゴに対し懺悔をして楽になろうとします。それで信仰を取り戻したかと思いきや、その後役人に迫られた際にはまた踏み絵を踏んで聖像に唾を吐く体たらく。あげくの果てにはロドリゴを銀貨で裏切り、自分の弱さを時代のせいにする有様です。
上ではロドリゴに弱さがあるとしましたが、その比ではありません。端的に言えばクズの中のクズです。キチジローがもう少し強ければ、ロドリゴはそれだけ長く司祭として隠れキリシタンの支えになれたと言えるほど、重要かつどうしようもない男です。
しかしキチジローの弱さは、誰もが自然に持ちうる類のものです。あくまで自分が助かりたいという気持ちが人一倍強いだけで、害意をもつものではありません。気高さや、他人を愛する心には乏しいですが、ある意味ではただ卑怯なだけとも言えます。強い人間が定めたルールに逆らう勇気が、彼には不足しているのです。他のクリスチャンにそうした勇気が備わっていただけに錯覚しそうになりますが、そもそも命を投げ出すのは誰だって怖くて当然です。
本来ならそうした弱さを責めることは、誰にもできないはずです。キチジローは度が過ぎているかもしれませんが、それだけです。むしろ日本全体を中心に考えると、幕府への叛逆者を摘発した人物ということにもなります。理屈で考えたら、キチジローは悪人ではないということになります。
それでも、彼はどうしようもなく醜いのです。教義やロドリゴを中心に考えても、直観的に捉えても、「絶対にこんな人間にはなりたくない!」という拒絶を感じざるを得ません。そんな自分に気づいたとき、自分がクリスチャンであるかどうかに関わらず、「自分は人の弱さに対して寛容でいられるだろうか?」と考えてしまいます。
どうしようもなく弱い人が周りにいたら、あなたはその人を許せますか?
【考察】なにも日本人だけが悪いわけでは無い
『沈黙 -サイレンス-』は、一貫してイエズス会士を物語の中心にして進行します。それゆえに、司祭としての仕事の成功が一種のカタルシスとして扱われ、迫害が受難としてクローズアップされています。逆に言えば日本・幕府側の視点はロドリゴの会話によって間接的にしか描写されておらず、偏見を助長することになりかねない作りになっています。
先述したように、日本では初めからキリスト教が拒絶されていたわけではありません。宣教師の来日から何年か経って、キリスト教の負の側面が目立っていったがために、豊臣秀吉が追放せざるを得なくなったという経緯があります。それでも国を乱していったため、最終的に鎖国化へと至ったのです。そこを省いているのは、日本人としてはかなり遺憾です。
ではキリスト教の負の側面とはなんでしょうか?ここでは二つ紹介します。
一つは、別の宗教への排他性です。キリスト教はあまり他の宗教を認めたがりません。イスラム教が欧米で否定されがちな現状は、イメージできる方も多いでしょう。信教の自由や平等思想が浸透した現代でさえそうなのですから、300年以上前ならもっと過激です。
実際のところ戦国時代の日本では、クリスチャンらが神社・仏閣を破壊し、住職らを殺害する事件が多数発生していました。昔の寺社はそれぞれの周囲の村の秩序の象徴であったため、現代で行われるよりもはるかに深刻な問題でした。江戸時代になってから起きた島原・天草の一揆の最中でも、戦争とは無関係の神社・仏閣がいくつも破壊されています。戦場になったわけでもないのにわざと壊すのです。為政者としてはこうした行為を到底許すわけにはいきませんでした。
そしてもう一つは、奴隷の肯定です。キリスト教の教義では奴隷が公認されていました。イスラム教徒やアフリカ人を奴隷として働かせることに、彼らはなんの抵抗も持っていませんでした。それと同時に、近世のポルトガルを始めとしたヨーロッパの国では、奴隷貿易によって利益を獲得していました。そしてカトリックには海外で信徒を増やそうという目的があり、ヨーロッパの王室や商人にはアジア人も拉致して奴隷に仕立てようという野心がありました。つまりローマ・カトリック教会とヨーロッパ商人に利害の対立はなく、どちらも「はるばる海外に出向く必要がある」という点で一致していたのです。
それゆえに宣教師と奴隷商人は結びつき、同じ航路でそれぞれの仕事を全うしました。宣教師による奴隷売買のサインなども残っていることからも、関係が深かったことがうかがえます。キリスト教が浸透すればするほど、日本人が奴隷として海外へ売り飛ばされていってしまうのです。日本側としては当然、これを見過ごすわけにはいきません。国民が奴隷として売られるのを阻止するためには、キリスト教を禁止するのが手っ取り早かったのです。
以上のような、日本側がキリスト教徒から受けた被害について、『沈黙 -サイレンス-』では一切の描写がありません。「五十年前に」「日本人の遠藤周作が」「一人で書いた小説の中で」こういった日本側の事情を省く分には、問題視する必要はなかったでしょう。
しかし、「二十一世紀に」「外国人が」「多数関わった映画の中で」省くとなると、さすがに事情が変わってくるように思えるのは筆者だけでしょうか。多少なりとも日本への配慮が加えられたって、バチは当たらなかったと思うのですが……。
総合的には「小説の良質な再現」止まり
結局のところ、本作の評価点は役者の演技力を120%引き出し、原作小説を克明に再現したという点に尽きます。そしてそれが同時に悪い点にもなっている、といったところでしょう。遠藤の原作には紛れもない魅力があり、それを丁寧に映像化すればよい映画が出来るのは、乱暴に言えば必然です。もちろん並大抵の人間ができる業ではなく、スコセッシだからできた画になっているのは間違いありません。役者たちもそれをよく彩っています。
しかしながら同時に、半世紀前の小説を映像化しただけに留まっているのも事実です。いくら名作だからといっても、やはり時代の流れには逆らえないものがあります。五十年前の小説を再現したということは、ここ五十年間の時代が反映されていないということであり、その五十年によってキリスト教を取り巻く社会が大きく変わってしまった以上、キリスト教を題材にした原作の意義もまた変わってしまいます。
この半世紀の間に、ヨーロッパ第一主義はほぼ完全に崩壊しました。あらゆる面においてヨーロッパが最も優れているという思想は、人類学的にも工業的にも、経済的にも文化的にも説得力を失くしました。そしてヨーロッパの地位が揺らいだ以上、それと切って切り離せない関係にあるキリスト教もまた、優位性が脅かされています。いまさら「キリスト教にはこういう力があるんだ!」という話をされても、どうしても空しいものがあるのです。
そういった時代錯誤感を拭うには、非常に難しいですが、何か21世紀だからできる脚色を加えるべきだったのではないかと思います。最近で言うと、五十年前の『あしたのジョー』が『メガロボクス』として蘇ったり、四十年前の『デビルマン』が『Devilman crybaby』として刷新されたりしました。どちらも日本での知名度は上がらなかったものの、海外では異例の高評価を獲得しています。具体的な言及をするのは難しいですが、なんにせよそういったアプローチを想定してしまうくらいには、古臭さが拭えなかったのは確かです。
そんなわけで『沈黙 -サイレンス-』は、新しさもなければ背景理解も難しく、拷問の描写も生々しいということでとても人に勧めにくい作品でした。
しかしながら原作が歴史に名を残す名著であることには変わりなく、またそれを見事に映像化していたことには間違いありません。「教養を深めたければ、一度は観ておくべき映画」といった位置づけが妥当かと思います。
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