映画『ラブライブ!サンシャイン!!The School Idol Movie Over the Rainbow』は、大人気アイドルアニメ「ラブライブ!」シリーズの第二作、『ラブライブ!サンシャイン!!』の続編で、テレビアニメ版の完結編ともいえるアニメ映画です。
テレビアニメ版で描かれていたアイドルの成長物語というベースはそのままに、アイドルユニットAqoursのメンバーがどういった道を選択するのかという要素や、劇場版ならではのハイクオリティなライブシーンなど、さらに進化した見所がたくさんある映画でした。
今回はそんな『ラブライブ!サンシャイン!!The School Idol Movie Over the Rainbow』の個人的な感想や解説、考察を書いていきます!ネタバレも含みますので注意していください。
目次
映画『ラブライブ!サンシャイン!!The School Idol Movie Over the Rainbow』を観て学んだこと・感じたこと
・アイドルの成長に感動!親心を感じられる!
・「スクール」アイドルならではの難しさを描き、ご都合主義にならなかった
・偉大な先輩μ’sが下した決断との違いに驚き!Aqoursならではの個性が感じられた
映画『ラブライブ!サンシャイン!!The School Idol Movie Over the Rainbow』の作品情報
公開日 | 2019年1月4日 |
監督 | 酒井和男 |
脚本 | 花田十輝 |
出演者 | 高海千歌(CV伊波杏樹) 桜内梨子(CV逢田梨香子) 松浦果南(CV諏訪ななか) 黒澤ダイヤ(CV小宮有紗) 渡辺 曜(CV斉藤朱夏) 津島善子(CV小林愛香) |
映画『ラブライブ!サンシャイン!!The School Idol Movie Over the Rainbow』のあらすじ・内容

浦の星女学院のスクールアイドルとして参加する最後の「ラブライブ!」で見事優勝を果たしたAqours。
いままで大黒柱となっていた3年生が卒業し、残されたメンバーは新たな学校での生活をはじめるべく準備に追われますが、そこには様々な問題が待ち受けていました。
一方で、3年生は修学旅行へと出発。しかし、3年生は3年生で何やら穏便な修学旅行にはならない予感が…。
そして、彼女たちはお互いにいなくなった「仲間」の存在の大きさを実感することになります。大切なことに気づいた彼女たちは、そこから何を学び決断していくのでしょうか。
映画『ラブライブ!サンシャイン!!The School Idol Movie Over the Rainbow』のネタバレ感想
テレビアニメ版と同じ製作陣が担当!引き続きサンシャインの世界観を満喫できる

監督の酒井和男・脚本の花田十輝のコンビは、テレビアニメ版と同様です。その他の主要な製作陣やキャストも続投しているので、続編にありがちな路線のブレは一切ありません。
テレビアニメ一期ではAqoursの結成から安定までの物語が描かれ、二期では学校の存続やラブライブ優勝などのシリアスな問題と立ち向かい、それを乗り越えるまでの物語が描かれました。そして、この劇場版では、3年生の卒業という問題に遭遇したAqoursの将来がメインテーマとして描かれます。
つまり、この映画はストーリーとしては実質的にテレビアニメ三期という位置づけになります。ストーリーの連続性を考えると、製作陣に大きな変化がなかったことは、一ファンとして一安心でした。
Aqoursの物語として、大きな決断を下す様子が丁寧に描かれている

映画では、ストーリーがテレビアニメ版とほぼ連続した時間軸で描かれます。そのため、視聴者は「ラブライブに優勝したが、学校の存続はかなわなかった」という前提を知ったうえで物語を観ていくことになります。
そのため、気がかりだったのが「Aqoursの将来」でした。目的であったラブライブの優勝を果たしたので、三年生3人の卒業という節目で活動をやめるのではないか。そういった考察をしているファンの方もいらっしゃいました。
しかし、Aqoursは活動をやめるのではなく、残された一、二年生6人で活動を続けていくという道を選択します。そして、この決断を快く三年生は受け入れます。個人的にこの三年生の受け入れ方も印象的でした。
もともと、Aqoursは三年生が結成したアイドルユニットだったため、当然自分たちの結成したユニットには人一倍のこだわりがあったはずです。それでも、後輩たちがAqoursを続けていくという決断を快く受け入れたところに、彼女たちの後輩に対する信頼感が表れているように感じられました。
どちらの決断が正解だったのか、その答えは誰にもわかりませんが、活動を休止するという選択肢をとるのではなく、一番難しいメンバーを減らしての継続という道を選んだ決断を、私は評価したいです。
実際、6人でのライブは想像以上に厳しいものであり、作中で残されたメンバーは葛藤を繰り返すことになります。
テレビアニメ版では描かれなかった周囲の人々も映画にアクセントを加えた

ここまでは主にテレビアニメ版と同じ要素や、引き継がれた要素について解説をしてきました。しかし、劇場版ならではの明確な違いがあり、テレビアニメ版では描かれていなかったAqours以外の人々、つまり脇役的な存在がしっかりと描かれていた点です。
テレビアニメ版の特徴ですが、あくまでAqoursを中心として描いた物語であったために、それ以外の人々の描写についてはあまり詳しく触れられていませんでした。一応、ライバルユニットであったSaint Showのキャラクターは、ライバルとしての存在感を増すべくそれなりに描写はありました。
しかし、Aqoursのメンバーの家族や周囲の人々については存在に触れられる程度で、深い描写はありませんでした。
その点については、脚本の花田十輝も意識していたのでしょう。映画では、何人かそういった周囲の人々が中心に描写されています。
曜のいとこ、渡辺月
まず一人は、Aqoursのメンバー渡辺曜のいとこにあたる渡辺月です。
月の存在はPVの時点で触れられていました。詳細については語られていませんでしたが、容姿がかなり中性的だったこともあり、ラブライブファンから大きな注目を集めていました。その理由としては、「ラブライブ!」シリーズ特有の世界観が挙げられます。
「ラブライブ!」シリーズでは、原則的に男性キャラクターは描かれません。そして、登場するごくわずかなキャラクターは、アイドルの弟や父親などの血縁関係者に限られています。これには、アイドルとの恋愛を連想させないというねらいがあるのでしょう。そのために、同年代でかつ中性的なキャラクターが親しげに曜と会話しているというシーンに、ファンは注目したのです。
映画の中でも月は注目を浴びることになります。Aqoursメンバーも、ファン同様月の正体を勘繰り、尾行するなどの行動をとります。
しかし、ふたを開けてみれば月は曜のいとこであり、女性であることが判明しました。このシーンは、明らかにファンを動揺させるために意図的なミスリードを画策したのでしょう。その甲斐もあって、公開前には話題にもなったという点では、作戦は成功したといえるのではないでしょうか。
月は、作中で自分の通う学校生徒会長を務めており、その高校はAqoursメンバーが在籍している浦の星女学院の統合先でもありました。そこで、実際に統合先の高校へとメンバーを案内しますが、そこで統合に反対する父母の姿を目撃することになります。
このシーンからわかるように、月は作中でそれなりに重要な役割を担っているといえます。しかし、彼女はスクールアイドルではないばかりか、スクールアイドルのことに全くといっていいほど詳しくありません。こうしたキャラクターが、作中で重要な役割を担っているところが、明らかにテレビアニメ版と異なっていました。
小原鞠莉の母親
もう一人は、卒業予定のAqoursの三年生メンバー小原鞠莉の母親です。彼女は、鞠莉をふくむ三年生が修学旅行先のイタリアで行方不明になっていることを伝え、捜索のために後輩たちにイタリアへの同行を願い出ます。三年生と一度話し合いの場をもちたいと考えていた後輩たちはこれを快諾し、一行はイタリアへと旅立ちます。
そして、イタリアでは鞠莉を発見しますが、彼女は母親から逃げ回ります。その理由は、母親にとって鞠莉がスクールアイドルであることは気分のいいものではなく、鞠莉の自由を奪うために追いかけてきていると知っていたからです。
しかし、最終的には母親と対峙し、母親からスクールアイドルであることを責められます。それを聞いて、同行していた後輩たちにも火が付きました。険悪な雰囲気に、鞠莉は「スクールアイドルのすばらしさを証明出来たら、自由にさせてくれるか」と問いかけ、母親はそれに同意し、異国の地でライブを行なうことになるのです。
つまり、鞠莉の母親は異国でのライブパートの導入のために起用されたといってもよいでしょう。母親が憎まれ役のような存在になり、ライブへの流れができていました。
ただ、読んでいても分かると思いますが、ここの展開は正直、やや不自然であることは否めません。ストーリーやセリフ回しが「異国でのライブパートへの導入」という目的を強くもっているという、製作上の都合が目についてしまうのです。
結果的にはライブの完成度をみた母親が、それに感動してうなずくというシーンに繋がります。正直、ここまで意固地な母親が折れるには少しパンチが弱いようにも感じられ、ここのシーンはあまり説得力がなかったようにも感じられます。
しかし、後述のようにライブシーンそのものの完成度は非常に高く、そこは安定していました。
最大のライバルSaint Snowへのフォローも万全!

先ほども触れたように、テレビアニメ版ではAqoursの最大のライバルSaint Snowが、ラブライブ優勝を目指す彼女たちに大きく立ちはだかるかに思われました。
立ち位置としては、前作のA-RISEのような大きな壁と目されており、描写も丁寧であったため、同様のポジションに落ち着くことが予想されました。
しかし、そこでこの予想は大きく裏切られることになります。優勝候補とささやかれていたSaint Snowでしたが、ユニットの片割れである妹の理亞が緊張からミスを連発し、ラブライブ本戦決勝への進出を逃すという出来事がありました。このため、彼女たちはA-RISEのように立ちはだかることもなければ、まともなライブシーンさえ描写されないといった有様でした。
こうして消化不良に終わったSaint Snowでしたが、映画ではそこに対するフォローもなされています。姉のラブライブをふいにしてしまったことを気にかける理亞に対し、Aqoursは果たされなかったラブライブの決勝戦を再現するために「ラブライブ!決勝延長戦」の開催を提案します。
この提案を受け入れたSaint Snowは、決勝で披露する予定だった新曲や衣装で、果たされなかった悔いを晴らすのでした。
ここには、この物語はAqoursのものだけではなく、「スクールアイドル全体の物語である」というメッセージが込められているように感じました。そうでなければ、ライバルの失敗をわざわざフォローする展開を差しはさむ必要はないからです。ここが、凡百のアイドルアニメとの違いでしょう。ライバルをただの悪役に落とし込むのではなく、負けた後の様子も描きつつそれをフォローする。
アイドル同士はライバルではあるが敵ではない、ということを伝えていました。
【解説】圧巻のライブパート!楽曲も演出も素晴らしいの一言

「ラブライブ!」シリーズは、劇中の楽曲やダンスが非常に高く評価されていることでも知られています。
実際に、μ’sやAqoursのライブは毎回大盛況で、紅白歌合戦への出場経験もあるなど、アイドルアニメとしては異例の評価を受けています。こうした「ラブライブ!」シリーズの長所は、当然この映画でもいかんなく発揮されています。
作中ではミュージカルや寸劇仕立ての楽曲から、ライバルの持ち歌まで、数多くの曲が採用されています。その見どころとして、「一曲一曲の尺や描写が本当に丁寧」というものが挙げられます。
通常、ライブシーンを一曲まるまる作るのは、かなりの手間になります。そのため、予算や作画の余裕がない場合、途中が省略されたり、回想シーンなどでお茶を濁されることが多いです。
しかし、流石は「ラブライブ!」シリーズの最新作。こうした「手抜き」のような演出は全くなく、圧巻のライブシーンが長尺で描かれています。これは、やはりこの映画に対してどれほどの手間と予算が投じられているかを証明するものであり、「ラブライブ!サンシャイン!!」の集大成として恥じることのない出来になっています。
そのため、劇場に繰り返し足を運ぶ、あるいはサイリウムやコールなど、現実のライブで行なわれるような観客の動きができる「応援上映」の需要もありそうに感じました。今後、そういった放送形態が増えていくかもしれません。
【考察】μ’sとの違いを鮮明にする数々の演出

さて、ここまでの記事と映画の内容から、「ラブライブ!」シリーズのファンは大多数があることに気づきます。そう、この映画は「μ’sとの違いを鮮明にするべく、さまざまな演出が盛り込まれている」という事実です。
例えば、ユニットの存続がその代表的な一例です。μ’sは同様の立場になった際、三年生のいないμ’sは成り立たないと判断し、活動の継続を断念しましたが、前述のようにAqoursは活動の継続を選択します。これは、明らかにμ’sの解散を意識しているでしょう。他にも、さまざまな点でμ’sとの違いを鮮明にするための演出や展開が用意されています。
さて、ここまでが事実です。ここからは、どうしてこのような演出を採用したのかということを考察していきます。
考えられる可能性としては、「Aqoursがμ’sを超えるには、違った方向性を選択する必要がある」という認識を、製作陣がもっていたという推察です。μ’sは文字通りアイドルアニメの域を超えた伝説のユニットでした。紅白歌合戦への出場やソーシャルゲームの大ヒットなど、ファンの熱量も経済効果もすさまじいものでした。しかし、結果的には活動を停止し、その後継としての役割をAqoursが担うことになります。
しかし、現実的に考えて、Aqoursがμ’sと全く同じことをしても、ファンはついてこないでしょう。同じことをするならば、飽きられて忘れ去られるのが関の山です。つまり、「スクールアイドルの成長物語」という根本は変えずに、「μ’sとは違ったAqours」を表現する必要があったと思われます。
そこで、映画では「Aqoursらしさ」を全面に打ち出したのではないかと思われます。そうすることで、μ’sに似て非なる存在として、Aqoursのカラーを確立させるねらいがあったように感じました。
【考察】ストーリーがやや駆け足気味になった理由

映画の内容を整理していくと、ストーリー全体がやや駆け足気味であった印象をうけます。わずか2時間足らずの時間の中で、Aqoursの集大成を表現する必要があったために、こういったストーリー展開になったのでしょう。
個人的には「押さえなければならない点」が、そもそもの段階で多すぎたように思えます。Aqours6人の課題を解決し、三年生との絆を確認して海外に行き、Saint Snowのフォローをする。ここに対して、さらに長尺のライブという要素を盛り込む必要があるわけですから、脚本や構成はさぞかし苦しかった事でしょう。そのために、やや駆け足気味のストーリーになってしまったことは、やむを得ないという事情もわかります。
しかし、恐らくテレビアニメ版の製作時点から、劇場版の製作は念頭に置かれていたはずなので、劇場版の要素をもう少しテレビアニメ版で補完しておけばとも思いました。もちろん、ことはそれほど単純ではないのかもしれませんが、それも難しいのであれば、思い切って一つのトピックをカットしてもよかったのかもしれません。
意図と事情は伝わりますが、ストーリーの駆け足な点はかなり気になりました。
ライブシーンや楽曲の完成度が高いだけに、少しもったいなかったと感じずにはいられません。そこが残念な部分ではありましたが、素晴らしい作品であることに変わりはありません。