日本映画/邦画の感想

映画『寒椿』のネタバレ感想・結末!女性から見た昭和初期を描いた作品

映画「寒椿」のあらすじ・内容

映画『寒椿』は、主演の南野陽子がヌードとなった事で、公開当時、大変に話題となった文芸映画です。

原作は宮尾登美子の小説「寒椿」。これは宮尾登美子自身の実体験をもとにした小説といわれており、女性から見た昭和初期の世界観がありありと感じられる映画に仕上がっていました。

今回は映画『寒椿』の個人的な感想を、ネタバレや解説を含めて書いていこうと思います!

映画「寒椿」映画を観て学んだ事・感じた事

・舞妓や芸妓、料亭などがこと細かく描かれ、芸妓の世界の仕組みが分かる!
・男の義を通す主人公・富田の義侠心
・自分の思いを通す事が出来ない、女のせつなさ

映画「寒椿」の作品情報

公開日1992年
監督降旗康男
脚本那須真知子
音楽小六禮次郎
出演者西田敏行(富田岩伍)
南野陽子(貞子=牡丹)
高嶋政宏(仁王山)
かたせ梨乃(松崎みね)
萩原流行(田村征彦)

映画「寒椿」のあらすじ・内容

映画「寒椿」のあらすじ・内容

普通選挙法が制定・実施される事となった昭和のはじめの土佐・高知。この時代の高地には、「陽暉楼」という高級料亭がありました。

口減らしや借金返済のために子を売る親が多かったこの時代、貞子もばくち狂いの親の借金返済のため、女衒(ぜげん:女性を買い付け、遊郭などに売る商売)の富田のもとに売られてきました。

富田の配慮で置屋(おきや)にあずけられて舞踊を仕込まれた貞子は、女郎として満州などに売られる運命を逃れ、芸妓「牡丹」として陽暉楼でデビューする事になります。

その美貌からあっという間に売れっ子となった牡丹でしたが、折しも始まった普通選挙法に絡んで、両政治家陣営の取り合いに巻き込まれ…

映画「寒椿」のネタバレ感想

芸妓の世界が細かく描かれていて面白い!

芸妓の世界が細かく描かれていて面白い!

この映画で最初に面白いと思った事は、芸妓の世界がこと細かに描かれている点でした。

舞妓や芸妓の世界って今も残っていますが、普通の人では触れる事も知る事も出来ない世界ですよね。舞妓、芸妓、それに三味線に合わせて踊る日本舞踊や小唄端唄、そして立派な料亭などは、まれにテレビや映画などで観る事ができるので、なんとなくのイメージはあるものの、それがいったいどのような世界で、どのような仕組みになっているかは、まったく知りませんでした。それが、この映画ではかなり濃密に描かれていて、「へえ、そうなってるんだ」と分かったところが、実に面白かったです。

 

江戸時代から続いている舞妓や芸妓ですが、どうやって女性がその世界に入っていくのでしょうか。

この映画では、それが細かく描かれていました。今のように人身売買が禁じられ、みずから進んで芸妓の道に入っていく世界と違い、むかしは親に売られて芸妓の世界に入るようでした。

この映画の主人公である貞子(南野陽子)の場合は、ばくち狂いの親の借金を埋めるために、女衒のもとに売り飛ばされます。この映画では、貞子は女性初のバスの車掌という事で、土佐で新聞に載るほど有名だった堅気だったところから、売り飛ばされて玄人になっていく転落の過程が描かれています。なんともせつない世界でした。

親に売られた後の仕組み

売られるといっても、お金で買ってそれで終わりなのではなく、女衒(ぜげん)が親にお金を払ってその女性を借り受け、売られた女は働いてその借金や使ったお金や利息を返し、すべて返し終わったら晴れて自由の身になる事が出来るようです。

しかし、さらに親がその子に借金をつけてお金を借りれば借金はまた増すので、自由の身になるのは容易ではありません。貞子の場合、ばくち狂いの親が、売った後も子どもを食い物にして、子供に借金をつけてお金を借りてしまうので延々と返し終わらず、悲劇が続いていました。これは切ないです。

 

女を買った(正確には、金で借り受けた)女衒は、その女を転売して商売とします。

売り先は、娼妓(体を売って稼ぐ女郎)として売り飛ばされるか、芸を身につけて芸妓として料亭などに立つか、このふたつが大きな道のようでした。前者は悲劇、後者も悲劇ではありますが、娼妓より何倍もましという感じのセリフがありました。また、時代が時代だけに、満州に売り飛ばされたりするようなのですよ。

女衒の富田(西田敏行)は、たんに女性を身売りして稼いでいるのではなく、売られてくる女の心の痛みを分かって、彼女らの親がわりのように振る舞う任侠心のある男でした。女郎として売り飛ばせば余計な出費もなすすぐ金になります。

しかし芸妓となるには三味線なり、小唄端唄などの歌なり、日本舞踊なり、なんらかの「芸」が身についていないといけないため、芸を身につけさせるまでにお金がかかるようです。貞子が美人という事もあり、富田は手間のかかる道と知りながら、彼女を芸妓の道に進ませます。

置屋から料亭に通う芸妓の世界

こうした芸妓がどこで生活しているかというと、置屋というところでした。女衒の富田は置屋の松崎(かたせ梨乃)に貞子を預けます。置屋は、芸妓たちに歌や踊りのレッスンをつけて芸を身につけさせ、また彼女たちが生活する場でもありました。芸妓はここから、職場である料亭まで通うんですね。

芸妓たちは置屋の二階の広間で、何十人も共同生活していました。この風景が、はなやかな芸妓の世界とは裏腹で、なるほど身売りされた女たちの生活がはなやかな筈はないなと思わされるリアリティでした。

 

そして一階では、三味線の先生を呼んで、芸妓たちに日本舞踊の稽古をつけている風景が描かれます。

三味線伴奏の歌音楽って歌舞伎だと長唄ですが、こういうところは小唄端唄なんですよね。小唄端唄って、よく聴くとかなり色っぽいものが結構ありますが(夜に男女が寝るシーンを間接的に表現したものも多数)、なるほどこういう世界で男に聴かせる歌だからそうなのか、と思いました。

この映画ではこういうところの描写が実に細かくて、大きな見どころではないかと思います。

だって、普通は料亭で遊ぶ事だって、死ぬまでできない人の方が圧倒的に多いですよね。まして、置屋の中の様子なんて、普通では絶対に見る事が出来ません。それがつぶさに描かれているんですから。

 

ところでこの映画、料亭の裏に、白壁にかわら屋根の置屋がたくさん集まっている町が映し出されていましたが、撮影場所はどこなんでしょうか。

綺麗な風景で、和風の橋の上を着飾った芸妓さんたちが料亭まで通っていく姿は、なんとも風情がありました。いいですねえ。

昭和初期の雰囲気が見事!

時代考証の入った見事な描写は、芸妓の世界だけではありませんでした。普通の街並みやファッションなども見事なんです!

まず、ファッション。お金持ちのホワイトカラーは、昭和初頭でもすでにスーツ着て働いているんですね。でも、それ以外の人は和服です。えらそうな人やお金持ちは羽織袴ですが、一般の人はだいたい着流しです。女性もほぼ和装ですが、「モガ」なんて言われる人だけが洋装。モガはモダン・ガールの略ですが、なるほどこういう風景の中で洋装すると、たしかにモダン・ガールと呼びたくなるのが分かる気がしました。

そして、街並み。道は土で舗装されていなくて、銀行のような為物を除けば、建物はみな木造りの日本建築。昔はこういう風景を古くさいと思った僕でしたが、今見るとこれを美しく感じました。木と紙(障子)と草(たたみ)で出来た家が、色といい風情といい、自然ととても調和して見えました。ファッションだけでなく、人力車と車など、日本に少しだけ西洋が入りこんできている風景。これは、映画のストーリーにもつながるものでした。

 

ところでこの風景、半分はセットだと思いますが、こういう事が出来るのが撮影所制作の映画の強みだと感じました。

この映画は東映の制作ですが、最近はテレビ局や実行委員会が主導する映画が目立つもので、こういう従来の撮影所形式の邦画を見るのは、逆に新鮮に感じました。セットやカメラマンや照明など、この道何十年という職人さんたちが作り上げる撮影所映画のプロっぽさ、素晴らしさが残ったいい映画だなあとしみじみと感じましたね。フィルムの質感や色味そしてここ一番での構図にまでプロっぽいです。

南野陽子の演技の素晴らしさ

さて、この映画の主役は、貞子(=牡丹)を演じる南野陽子と、富田を演じる西田敏行です。僕はこの映画が、何十回も観るほど好きで、それでも見るたびに感動してしまうのですが、その感動の大半は富田の振る舞いと、その背後にある哲学にあるみたいだと思うようになりました。でも、それが感動を呼ぶ理由には、南野陽子演じる牡丹が、とてつもなく魅力的だからなのでしょう。

役者としての南野陽子さんは、この映画の前だとなんといっても「スケバン刑事」というテレビシリーズで知られた存在でした。要するに、アイドルが棒読みでセリフを言うもので、学芸会の延長程度のものだったのです(「スケバン刑事」が好きな方、ごめんなさい!)。

私もこの映画を実際に観る前は、南野さんの演技にはあまり期待していませんでした。ところが、この映画での南野陽子さんの芝居は、見事に女優でした。セリフは南野さんの内側から出てきたように自然、表情やしぐさのひとつまで実に見事でした。冒頭から20分過ぎ、女衒のもとに売られにきたときの貞子が、動揺と絶望のあまり口すら聴けずに体をこわばらせるシーンがあります。ここでの南野さんの演技は本当に見事でした。

牡丹の魅力が、男の世界の哲学をきわだたせる!

牡丹のあまりの美しさに魅了される男が何人も出る事、そしてその美女に思われ人がいるところが、この映画のストーリーでは重要でした。美人でないと話が成立しないし、感動も半減してしまうんです。こうした、美人でないと務まらない「牡丹」という役を演じ切る事が出来たのも南野さんの魅力です。

スクリーンの中で美人だと思た女優さんは何人もいますが、「カサブランカ」でのイングリッド・バーグマンが強さと聡明さを秘めたヨーロッパの美感をにじませていたのに対し、この映画での南野さんは奥ゆかしさとはかなさという、なんとも古風な日本の美感をにじませていました。

実際の南野さんはインタビューなどを見る限りは、そういう女性ではないようです。つまりこれは、南野さんの芝居や演技指導、映画上の演出などの勝利です。見事というよりほかありません。

 

牡丹は身売りされた女で、父に見放され、男に金で買われて抱かれる女です。そんな牡丹の身を本当に親身になって考えてくれた唯一の男が、もうひとつの主人公・富田です。この映画、僕が男性目線で見ていてグッときたシーンのひとつは、牡丹が富田に思いを寄せるところでした。富田に感情移入していると、美女に告白されたのが自分であるような気分をどこかで味わえたんですね。でも、それがグッとくるのは、恋してしまうぐらい、牡丹が美女でかつ魅力あふれる女性である必要があると思うんです。それだけの魅力が、牡丹にはありました。

ちなみに、これは原作小説のほうの『寒椿』に書いてあった事ですが、芸妓は、牡丹の花の柄の振袖を着ないんだそうです。理由は、牡丹は花びらが首からボロッと落ちて散るので、不吉だから。それをこの映画では、「パッと大きく割いてサッと散る」というメタファーとして扱っていて、なかなか見事な機転だったと思います。脚本の那須真知子さんの才能ですね。

小説に登場しない女衒・富田の魅力

その牡丹が思いを寄せる男の女衒・富田。彼の行動が、この映画最大の感動でした。

ストーリーよりも、富田の行動や発言、そしてその背景にあるものに感動させられたといっても過言ではありません。でも実は、この「富田」という男、原作には登場しない、映画オリジナルのキャラクターなんですよ。ちょっとしたトリビアです。

富田は、腰の低い男です。侠客とのやりとりでも「皆様がたより2枚も3枚も格下の人間ですけえ」といい、牡丹に惚れている侠客の仁王山に果たし状を突きつけられても、戦うより前に頭を下げ、「参った。参りました」というほど。しかし、腰がひくいだけでなく、会話の端々に頭の切れる様子が垣間見えます。牡丹に非のない事であっても、侠客の顔を立て、「私どものボタンが不心得を起こし…」とへりくだって身を引き取りに行きます。侠客の前を通る時も、「ご無礼さしてもらいます」と、へりくだりつつも場馴れした雰囲気です。

腰は低いのですが頭が切れ、そしてどこか貫禄すら感じるのです。この富田の雰囲気が、すこぶる格好よかったです。こういった男性像は、この映画を配給した東映がかつて大量に作った任侠映画に出てくる主人公像に重なって見えました。侠客です。

侠客とはなにか

この映画の魅力は富田であり、富田の魅力は侠客である事です。一般的には侠客ってやくざの事ですよね。しかし、侠客の言葉の由来を調べると、元はそういう意味ではないようです。

この映画には仁王山というやくざに憧れた富田の息子が、侠客を「男らしい」というシーンがあります。それに対して富田はこう答えます。

「侠客のどこが男らしいんじゃ。侠客はの、金持ちと見たら足の裏まで舐めやがる。貧乏人と知ったら生き血をすすりやがる。」

つまり、富田は「やくざ」としての侠客を真っ向から否定しています。実は、富田自身が、かつて「火の玉」と言われたほどの暴れ者の「やくざ」侠客だったのです。しかし富田は、大恋愛の末にすっぱりと任侠道から足を洗っていたのです。

そして、やくざから足を洗い、女衒として生きる富田のうちに流れている哲学が、弱い立場の女性の気持ちを分かり、愛に生きようとし刀をさやに納め、こうべを垂れて生きる「道」としての侠客だったのです。これはこの映画を観ていて、端々から感じました。本当にしびれましたね。

富田が刀を抜く時

そんな富田の義侠心があらわれるシーンが、この映画にはいくつもあります。

最初に心をゆすぶられたシーンは恋に狂って牡丹に会いに来る侠客・仁王山を、富田が張り倒して牡丹を守るシーンです。

富田は仁王山に決斗を申し込まれ、戦う前から土下座して謝っています。そんな自分のプライドや何かのために血を流すなどという事をしないのです。でも、人を守るためなら平然とやくざにも立ち向かうのですよね。

このシーンは切なげな音楽と相まって、心が震えるものがありました。

牡丹の告白

もうひとつ、心を動かされたシーンがありました。牡丹が富田に愛を告白するシーンです。

借金返済を背負わされている芸妓は、その借金をすべて払って身請けしてくれる人が出ると、いきなりその商売から脱出する事が出来ます。これも、お金で買われているような感じですけどね。でもその額が法外なので、身請けされる芸妓なんてめったにいません。ところが、牡丹は高知でいちばんの売れっ子、身請けする人があらわれました。自分を売ったり買ったり傷つけたり奪ったり、自分本位に牡丹を奔走る男たちの中で、富田だけが相手を思って行動してくれる人です。そんな富田に心を寄せていた牡丹ですが、身請け人にひどい事をされた時に、たまらず逃げ出して富田に会いに来ます。そして、富田に愛を告白しに来ます。一晩だけ抱いて欲しい、と。

富田は、牡丹という美しく、そして清らかでもある女性からの求愛を、「筋」のために断ります。義を優先するんですね。ここは心打たれるシーンでした。

そして、富田のそうした態度に対する、牡丹の言葉が、また胸をうたれました。
「ととさんの奥さんがうらやましい。死ぬほどうらやましい…」

富田と対極の存在もまたひとつの美学

もう一人、この映画には独特な魅力を感じる人間がいました。新興勢力のやくざの親分・田村(萩原流行)です。彼は、富田とはまったく対極の美学を持って生きているような存在でした。ところが、これはこれで魅力があるのです。

皆がまだ和服を着ている中でシルクハットをかぶり、スーツをビシッと着る田村は、新しい時代の象徴のような存在です。田村は金のためなら政治家も銀行かも食い物にし、強迫もすれば女を満州に売り飛ばしもします。普通なら、好感を覚える主人公の反対の行動をして反対の美学を持っているのですから、反感を覚えて普通の気がしますよね。でも不思議な事に、田村は田村でまたカッコ良いのです。

 

これって、なぜなのでしょうね。要するに、田村の恰好よさは、やはり富田と同じように「徹底した美学を自分の中に持っている」事なのではないかと思いました。

田村の選択している美学は愛は捨てて、弱肉強食の世界で、強さのみで生きる選択です。それは言ってみれば動物の世界と同じで、自分が弱者になった瞬間に食われて終わりです。それが正しい選択かどうかは絶対的なものではなく、社会がどちらを選択するかで決まっているように思います。もし、社会の皆が共存を目指すのであれば、田村は悪で富田は正義です。でも、もし社会の皆が弱肉強食を選択したら、田村の強さはそれ自体が正義で富田は悪です。

この映画が単純化された勧善懲悪ではなく物語に深みを与えているのは、田村の存在が大きかったように思いました。よもや、萩原流行さんがこんなに格好いい役を演じ切るとは!

そして、結末

この映画の結末は、余韻を残すものでした。

死者が続出した地獄のような一夜が開けた後、シーンが大きく変わります。指を失った牡丹と仁王山は、バスに乗ってこの町を去ります。その時の仁王山の表情は、あれほどの荒くれ者であったのが嘘のようにおだやかでそして優しいです。しかし、その後のふたりの行方は、誰も知りません。

 

死んだと思われた富田は一命をとりとめるも逃亡生活を余儀なくされ、息子に別れを言いに来ます。そこで、息子に言う別れの言葉は、涙なくしては聞けないものでした。

桜が咲き、竹林が美しく映え、遠くで子供をさがす母親の言葉がひびきわたる中で富田は息子に伝えます。「わしは、お母ちゃん、幸せに出来んかった。おまんなら出来る。せやきに、お母ちゃん、お前に任したぞ。」富田は大恋愛の末に奪った女を、その女の幸せを思って息子にあずけ去る決意をします。

このラストの描き方は絶妙と感じました。結論をつけてはいますが、その行方はぼかして、余韻を残します。ここで僕は涙を禁じ得ませんでした。

撮影所制作の日本映画、最高の一作

僕が日本映画を何本見てきたかは、勝終えた事がないので分かりません。でも、相当な数を見ているのは確かです。

その中でベストといえる作品はと訊かれたら、篠田正浩監督の『心中天網島』、岸恵子がヒロインを演じた『悪魔の手毬歌』、そしてこの映画は、間違いなく候補に入れるのではないかと思います。

戦後の撮影所制作の日本映画は、モノクロの時ほど傑作が多いと感じますが、90年代になってなおその美感を残した『寒椿』。これは外国映画では表現不可能な、日本独特の情感と美感を示した大傑作だと思います!