映画やドラマには「法定もの」と呼ばれるジャンルがあります。裁判所や法廷を舞台として、事件に絡んだ人間模様を描くサスペンスもあれば、法そのものの不備を明らかにする社会派的な作品もあり、一定の人気があります。
なかでも、『十二人の怒れる男』は陪審員制度をネタに使用した法廷ものの傑作といえるでしょう。物語を構成するのは、ある裁判を巡る12人の陪審員の議論だけ。しかし、その議論には誰が見ても面白いと思ってしまうような、物語のツボを押さえた展開が凝縮されています。
今回はそんな『一二人の怒れる男』の感想や解説、考察を紹介します。なお、公開から既に半世紀以上が経過している作品であり、ネタバレを多く含んでいる点にご容赦ください。
目次
映画『十二人の怒れる男』を観て学んだこと・感じたこと
・圧倒的な情報不足、しかし誰もが面白いと感じてしまう
・陪審制度をテーマにした法廷ものだが、シンプルでいて多層的な構造を持つ作品
・白黒映画に拒否感がある人こそ最初に手に取って欲しい作品
映画『十二人の怒れる男』の作品情報
公開日 | 1959年8月4日(日本) |
監督 | シドニー・ルメット |
脚本 | レジナルド・ローズ |
出演者 | 陪審員8番(ヘンリー・フォンダ) 陪審員3番(リー・J・コッブ) 陪審員1番(マーティン・バルサム) 陪審員4番(E・G・マーシャル) 陪審員7番(ジャック・ウォーデン) 陪審員10番(エド・ベグリー) |
映画『十二人の怒れる男』のあらすじ・内容
父親を殺したとされる、ある少年の裁判。陪審員として集められた十二人の男たちは、それぞれお互いの名前も知らないまま、評決を進めようとします。少年に不利な状況証拠は多く、有罪は誰が見ても明らかなように思えました。
手っ取り早く全員一致の確認をしようとしたところ、1人の男が無罪に手を挙げます。なぜだと訝しむような男たちの視線に、手を挙げた男は自分の意見を述べ始めました――。
映画『十二人の怒れる男』のネタバレ感想
【解説】元はアメリカのテレビドラマだった作品
『十二人の怒れる男』は1957年に公開された映画であり、日本でも1959年に上映されました。陪審員制度をテーマとした、いわゆる法廷ものの作品です。誰が見ても膝を叩くような面白さは半世紀以上が経過しても色あせることはなく、まさにオールタイムベストの名に相応しい一作といえるでしょう。
物語の構成は至って単純です。父親を殺した罪で裁判にかけられている18歳の少年に対して、12人の陪審員が有罪か無罪かを話し合い、評決にいたるまでの過程を描いています。
12人の陪審員のうち、11人が有罪であると主張しており、無罪に手を挙げるのは1人だけ。しかし、最初に無罪を主張した陪審員の理知的な意見と、少年の命を軽んじてはいけないという強い熱意が、少しずつ他の陪審員の意見を動かしていきます。
陪審員制度の特徴である密室内から、登場人物が移動することはほとんどありません。しかも、12人の陪審員はそれぞれの名前が明らかにされることも、作中で別称を呼ばれることもないのです。
物語における基本的な情報を徹底的に排した構成。しかし、そのおかげで陪審員の会話劇がくっきりと輪郭を表していきます。
無駄と思えるような会話も、登場人物の性格を表すエッセンスとして洗練されています。陪審員を演じるキャストの演技も相まって、似たように感じる人物は1人もいません。『十二人の怒れる男』は非常に実験的な作品でありながらも、きわめて完成度の高い作品となっているのです。
本作の制作は、脚本を担当したレジナルド・ローズが、陪審員として議論に参加した経験がきっかけとなっています。
彼が書いた『十二人の怒れる男』は映画公開の3年間、1954年にCBSの単発テレビドラマシリーズ「スタジオ・ワン」の1エピソードとしてはじめて放送されました。このテレビドラマが高い評価を得たため、映画版の作成につながったといわれています。
なお、テレビドラマ版では時間の制約上、脚本から多くの台詞がカットされているといいます。その意味では、映画版はまさに本作の完全版といえるでしょう。
『十二人の怒れる男』の監督はシドニー・ルメット。社会派映画を撮り続けたことで有名な監督であり、アメリカ映画界の巨匠の一人です。
代表作は冷戦下の米ソの対立におけるリスクの本質を描いた『未知への飛行』、小説家アガサ・クリスティの代表作を映像化した『オリエント急行殺人事件』、一つの誤算が連鎖的に悲劇を招き寄せ、家族の心の闇を浮かび上がらせる『その土曜日、7時58分』など。2005年には映画制作における生涯にわたっての功績が認められ、アカデミー名誉賞を受賞しています。
【解説】名前が呼ばれないのに、特徴がわかってくる12人の陪審員
先にも述べたように、12人の陪審員の名前が作中で呼ばれることはありません。
そのため、本作の解説にあたり、陪審員には便宜上1~12番までの番号を振ります。以下、12人の陪審員の特徴を簡単に示しましょう。
陪審員1番:議長を務める。中学校の体育教師。真面目な雰囲気。
陪審員2番:眼鏡をかけた気弱そうな銀行員。少しずつ自分の意見を出すようになる。
陪審員3番:配送会社の経営者。息子と仲違いしている。最後まで有罪を主張。
陪審員4番:株の仲買人。理論的かつ冷静な性格であり、有罪を主張。汗をかかない。
陪審員5番:スラム出身の労働者。温厚な性格だが、ナイフを使った喧嘩に関する知見も披露。
陪審員6番:労働者で義理人情に篤く、年上を敬う。
陪審員7番:野球のナイター観賞を優先するあまり、裁判をはやく終わらせたがっている。いい加減な性格。
陪審員8番:建築家であり、検察が提出した数々の証拠に疑念を抱く。一番最初に無罪を主張。
陪審員9番:陪審員のなかでは最年長。陪審員8番の意見を聞いて、最初に主張を変えた人物。観察眼に優れている。
陪審員10番:経営者。貧困層への差別的な発言が目立ち、感情的に有罪を主張する。
陪審員11番:移民の時計職人。陪審員としての責務を強く感じている。
陪審員12番:広告代理店の社員。社交的だが自分の意見を持っておらず、陪審員で唯一、主張を二転三転させる。
白黒映画ということもあって、おそらく視聴直後は登場人物の区別がつかないことでしょう。しかし、鑑賞後は上に挙げた番号だけで、陪審員の顔が思い浮かぶはずです。作中では形式と内容の両面から、12人の陪審員が強く印象づけられていきます。
陪審員の区別をつける工夫のひとつが、会議における席順です。部屋の中央には大きな会議机があり、議長を務める陪審員1番が会議机のセンターに位置し、2番以降は時計回りに並ぶようにして座ります。
そのため、陪審員の顔や性格が、位置関係と結びつけられて印象に残りやすくなるのです。なお、部屋の中を動き回ることはあるものの、基本的に席順は変わりません。鑑賞後も座席順を振り返ってみることで、それぞれの顔と発言、そして性格がすぐに思い出せることでしょう。
もちろん、それぞれの陪審員がどれも特徴的な人物に見える理由は、決して席順だけではありません。どの陪審員も互いに似ておらず、特徴的な性格をしています。台詞のボリュームもバランスよく割り当てられており、印象の薄い陪審員はひとりもいません。
しかも、会話においてそれぞれの陪審員の関係が示される点が、彼らの性格をさらに印象づけます。
たとえば陪審員2番は当初、陪審員3番の強気な姿勢になかなか自分の意見を出せませんでした。しかし、陪審員8番の意見を聞いて主張を無罪に変えると、陪審員3番にひるまずに持論を展開していくようになります。ナイフの刺し傷についての疑問など、陪審員2番は小さな疑問を見逃せない性格であることがわかるのです。
また、陪審員7番も陪審員11番との関係によって、いい加減な性格を強く印象づけられていきます。当初、陪審員7番は野球のナイターに行く予定をしており、早々に議論を終わらせたがっていました。しかし、作中で夕立が降り、ナイターへ行けなくなった途端、彼は議論がどうでもよくなってしまい無罪に手を挙げます。
しかし、陪審員の仕事に責任を感じている陪審員11番からは、あまりにいい加減に意見を変えた陪審員7番へ詰め寄ります。陪審員7番は己のいい加減さを恥じたのか、何も言い返せませんでした。両者の責任感の違いがよく表れている場面だといえるでしょう。
その他、最年長の陪審員9番をバカにした陪審員3番に対して、年上を敬う性格の陪審員6番が激高するなど、登場人物の間で小さな関係がいくつも表出していきます。複数の人間関係が絡み合って繰り広げられる会話劇が、それぞれのキャラクターの特徴を一層際立たせているのです。
【解説】ヘンリー・フォンダ演じる陪審員8番の熱意が素晴らしい
本作の主人公的な位置にいるのが、当初から無罪を主張している陪審員8番です。
陪審員8番を演じたのはヘンリー・フォンダ。1981年の『黄昏』でアカデミー主演男優賞を受賞した、往年の名俳優の一人です。代表作はジョン・スタインベックの同名小説を映画化した1940年の『怒りの葡萄』や、OK牧場の決闘があまりにも有名な1946年の『荒野の決闘』など。なお、『十二人の怒れる男』ではレジナルド・ローズと共にプロデューサーも兼ねています。
本作のもっとも面白いポイントは、最初から無罪を主張している陪審員8番の熱意にあります。
実は、陪審員8番は被告である18歳の少年が無罪であるという証拠も、確固たる確信も持っているわけではありません。しかし、検察が並べた状況証拠に疑問を感じており、少年が有罪とは言い切れないと考えているのです。
陪審員8番が有罪を主張すれば全員一致で有罪が確定し、少年は電気イス送りとなってしまいますが、状況証拠に疑問がある限り、少年の命を奪うことはできないとして、8番は無罪を主張するのです。状況証拠についての疑問を彼はあくまで冷静に、理論的に説明していきます。
建築家という設定のためか、陪審員8番の説明には理系のような理詰めの雰囲気があります。
たとえば、殺人現場の階下の部屋で物音を聞いたという老人の証言と、殺人現場と線路を挟んで向かいの建物から殺人を目撃したという女性の証言は食い違っているといいます。
女性は6両編成の鉄道が通り過ぎていく途中、走っている車両越しに殺人現場を目撃したといいます。陪審員たちの意見を集約すると、6両編成の鉄道が通り過ぎる時間は長くて10秒程度でした。
一方、鉄道近くの建物は騒音が酷く、ましてや別の階の物音を聞き分けるのは困難だと陪審員8番は指摘します。つまり、10秒程度も騒音に包まれているなかで、階上の部屋の物音など聞き分けられるはずがないと陪審員8番は主張するのです。
また、物音を聞いた後に逃げていく少年の様子をドア越しに目撃した際、老人がベッドからドアへ向かうまでの時間は15秒程度だといわれていました。しかし、老人は脚が悪く、ベッドからドアまで本当に15秒程度で行けたのかどうか疑わしいと陪審員8番は指摘します。
そこで、老人の部屋の見取図を用いてベッドからドアまでの距離を算出し、脚を引き摺りながら実際に歩いてみせることに。仮説が正しいか実際にやってみようという、陪審員8番の理系な性格がよく表れています。検証の結果、かかった時間は41秒。老人の証言との食い違いが明らかになります。
こうした「法廷もの」や「推理もの」では、反証はある意味でお決まりのネタの一つであり、それゆえに面白いともいえます。
無罪を主張しながらも、あくまで中立的なスタンスを崩さず、ただ疑問が残る限りは有罪に賛成できない――彼の主張には静かな熱意が込められているように感じます。実際、作中で陪審員8番は、実際には少年が犯人なのかもしれないと語っています。本当のところは自分でもわからないと感じているように見えるのです。
陪審員8番の仕事はあくまで陪審員であり、証拠を並べ立てる検察でもなければ、反証を行う弁護士でもありません。検察や弁護士の仕事に疑義がある以上、陪審員としては考えなしに結論を出せないとして、あくまで陪審員の立場から反証をしているだけです。
そんな陪審員8番にとって、反証が正確なものである必要はありません。検察の立証に疑いがあり、100%有罪とはいい難いということだけを示せれば、彼には十分なのです。
実際、彼の疑義を理解して、少しずつ無罪へと意見を変える人が増えていきます。そうして無罪を主張する人数が有罪よりも多くなったとき、本作の面白みはまさに最高潮に達するといえるでしょう。
【解説】陪審員8番と3番の立場の入れ替わり
陪審員8番の意見に納得し、1人また1人と意見を無罪に変えていく他の陪審員たち。意見を変えずに残るのが、理論的に有罪であることを主張する陪審員4番、貧困層の少年への侮蔑を隠さない陪審員10番、そして陪審員8番の反証は思い込みだと反論する陪審員3番です。
しかし、陪審員10番はその差別的な発言から、無罪を主張する陪審員、そして有罪を主張する陪審員3番や陪審員4番からも距離を置かれてしまいます。やがて、自分の意見があまりに的外れであったことに気がつき、無罪へと転向します。
また、陪審員4番は殺人現場を目撃した女性の証言が揺るがないとしていました。けれども、陪審員9番の人間に対する鋭い観察眼から、女性は視力が悪いことに気がつき、意見を翻すこととなります。
最後に残ったのは陪審員3番のみです。有罪と無罪を主張する割合は1対11。物語の冒頭、陪審員8番が無罪を主張していたときの割合もまた11対1。孤立無援となった陪審員3番の立場が、陪審員8番の立場と重なります。
先に示したように、本作では会話を通じて陪審員の関係が示されるのが特徴です。なかでも、陪審員8番と陪審員3番は、当初から有罪か無罪かを巡って真っ向から意見が対立しています。冷静な性格の陪審員8番も、有罪と決めつける陪審員3番をサディストだと罵るなど、意見の対立から時に感情を爆発させるのが印象的です。
頑なに有罪を主張する陪審員3番の様子に、陪審員10番と似たような印象を持つ人もいるかもしれません。しかし、陪審員10番の主張は、貧困層への一方的な差別という侮蔑的な感情に基因しています。
一方、陪審員3番もまた感情的ではあるものの、その理由は陪審員10番とは明らかに異なっています。陪審員3番が有罪を主張するのは、喧嘩別れした息子と被告の少年を重ねているためです。彼は自分を殴って出ていった息子のことが許せず、今も複雑な感情を持て余しているのでした。
物語の終盤、陪審員3番は検察が立証した事実を書き留めたノートを取り出そうとして、息子と映した写真を取り落とします。写真を掴んで破り捨てる陪審員3番。その瞬間、息子を心配し大切に想っていたのだということに気がつき、彼は泣きながら無罪へ転向します。
物語のラスト、陪審員3番と対立していた陪審員8番が彼へジャケットをかけてあげる場面は非常に印象的です。
【考察】テーマは陪審員制度だけではない?どのような解釈もできる名作
もし、陪審員8番がいなかったら。評決はどのようになっていたのでしょうか。
おそらく評決は有罪となり、少年は死刑になっていたことでしょう。陪審員8番の存在は、物事を正しく見つめることの大切さを訴えるだけではなく、裁判の内容を盲目的に信じてしまう可能性がある、陪審員制度の問題点を指摘しているといえます。
ただし、本作は最終的に判決の内容を明らかにしません。また、真犯人が誰だったのかが明らかになるわけでもありません。先に述べたように、陪審員8番の主張は実は誤りであり、もしかすると少年は有罪かもしれないのです。
少し考えればわかることですが、陪審員8番の反証は現場で証人に実証させたわけではないため、正確なものとはいえません。その意味では、陪審員8番の意見は、事件の目撃者の証言と同じように疑義があります。
陪審員8番の疑義を含んだ意見に賛同し、無罪へと意見を変えていく陪審員たち。それは、検察の疑義を含む立証に賛同し、有罪と主張していたのと同じではないでしょうか。
そして、物語の最後で陪審員3番に対して向けられた、他の陪審員たちの目。それは、陪審員8番に向けられていたものと同じです。つまり、他のやつらはみんな同じ意見なのに、なぜお前だけ異なった意見を持つのだという同調圧力に他なりません。
作中では民主主義や少数意見を尊重する台詞が出てきますが、陪審員8番や陪審員3番に対する同調圧力のような視線のあとでは、かえって皮肉な印象も持ってしまうことでしょう。
表向きは陪審員制度をテーマとした痛快な法廷ものである『十二人の怒れる男』。見方によっては多層的なテーマを抱えており、それぞれのテーマがいかようにも解釈できる作りとなっています。
こうした幅広い見方を許容する点が、半世紀以上経っても本作が名作に輝く理由の一つといえるでしょう。