映画「ハウス・ジャック・ビルト」は、デンマークの映画監督ラース・フォン・トリアーによるシリアルキラー・ジャックを描いた映画です。異常なまでに残酷で倫理観のかけらもない演出、そして不愉快になるほどの描写の連続で、グロ耐性がある人でも拒絶してしまいかねないほどの問題作となっています。
ただ、それでもこの映画は面白い。そう言わざるを得ないほどのパワーを感じてしまう作品でもあります。「ダンサー・イン・ザ・ダーク」でパルムドールを受賞した経歴を持つ偉大な監督が、今度はカンヌ国際映画祭で途中退席者を続出させる衝撃作を仕上げてしまいました。
今回は映画「ハウス・ジャック・ビルト」のネタバレ感想・解説・考察を書いていきます。
目次
映画「ハウス・ジャック・ビルト」を観て学んだ事・感じた事
・ラース・フォン・トリアーの鬼才ぶりが体感できる作品
・殺しの描写をありのままに描く残酷さとリアリティ
・マット・ディロン演じるシリアルキラー・ジャックの圧倒的な魅力
映画「ハウス・ジャック・ビルト」の作品情報
公開日 | 2019年6月14日 |
監督 | ラース・フォン・トリアー |
脚本 | ラース・フォン・トリアー |
出演者 | ジャック(マット・ディロン) ヴァージ(ブルーノ・ガンツ) |
映画「ハウス・ジャック・ビルト」のあらすじ・内容

舞台は1970年代から1980年代にかけてのアメリカ合衆国ワシントン州。この地で暗躍したシリアルキラー・ジャックと謎の老人との対話から始まります。彼の起こした殺人事件から5つの出来事を順番に回想していく展開です。
建築技師を自称し、強迫性障害を持っていたジャックが次々と罪のない人を殺し続ける中で、彼は殺人に夢中になっていき、自分の行為を正当化していきます。
映画「ハウス・ジャック・ビルト」のネタバレ感想

映画「ハウス・ジャック・ビルト」を見終わった瞬間にまず感じたのが「この監督はなんでこんな映画を作ったのだろうか」ということでした。あまりに残虐かつ恐怖に満ちたシリアルキラーが、次々と人を殺していくのをただ淡々と見せられていく映画です。
殺人のシーンも魅せるための演出などが積極的に行われているのではなく、真正面から人が殺されていくのを見せられていく、そんな目をレイプされているかのような映像体験がそこにはありました。
シリアルキラーのジャックがどのように人を殺し続けてきたのかを見ていく映画となっていますが、あまりに過激で想像以上に残酷、そして何よりも魅惑的なオーラを放つマット・ディロン演じるジャックに圧倒されてしまいます。
映画「ハウス・ジャック・ビルト」は、カンヌ国際映画祭で上映されたそうなのですが、あまりの過激ぶりに途中退席者が続出したほどでした。それでも上映後にはスタンディングオベーションが沸き起こったと報じられており、いい意味でも悪い意味でも極端な作品であることがわかります。
ラース・フォン・トリアー監督はどこに向かっているのでしょうか。タブーを踏み越え続ける鬼才監督がまたしても異常なほどの問題作を世に送り出してしまいました。
ここでは映画「ハウス・ジャック・ビルト」の感想を1つ1つの項目に分けて書いていきます。
【解説】覚悟を決めて狂気の映画を堪能しよう

まず、最初に知っておきたいのは、この映画を見る上ではそれなりの覚悟が必要であるという点です。シリアルキラーが登場する映画は、これ以外にもたくさんあるとは思いますが、映画「ハウス・ジャック・ビルト」は映画と呼べるほど生易しいものではありません。
映画であれば、エンターテイメント性を求めて異常な人格、過剰な殺害シーン、それらが整って演出され、どことなくかっこよさや魅力を放つものです。
しかし、映画「ハウス・ジャック・ビルト」では、そんなことは全くしません。とにかく殺害シーンをそのまま魅せます。細かい演出や観客への配慮なんてものはありません。
人を斬るにしても、首を絞めるにしても、鈍器で殴るにしても、100%ありのままの殺害シーンが目に飛び込んできます。普通であれば観客の心象に耐えられない表現は、何らかの演出によって緩和して表現としてシーンが伝わるような作り方がなされるはずです。
この映画では、そんな残酷で耐え難いシーンでも一切隠すようなことをしません。カンヌ国際映画祭での上映で途中退席者が続出したというのも頷けます。思わず目を背けたくなってしまいたくなるシーンの連続なのですが「お金払ってるしなぁ…」と見ることを余儀なくされてしまいます。
あと、こういった過激で残酷なシーンが度々映し出され、見ている方としては衝撃的なのですが、衝撃的なシーンを衝撃的なシーンとして描いていないところも、この映画の特徴といえます。
2つ目のエピソードで殺害した女性をシートに包んで、車で引きずって倉庫まで移動するというシーンがありますが、これによって女性の体の表面がズッタズタに削れてしまい、その姿をさも当たり前かのように正面から映し出すのです。
普通だったら見せないでしょうし、見せるとしても何らかの効果音やカットによる演出があってもいいものなのですが、そういった小細工を全くせず「ジャックが遺体を倉庫に持って帰ったら、まず包んだシートを外すでしょ?」と言われているかのようにそのシーンが映し出されます。
こういった感じで何気なく自然な流れでグロいシーンが映し出されるので、見ている方としては心の準備がまるでできませんし、突然映し出される残虐性にどうすればいいのかわからなくなってしまいます。
映画は観客が楽しむために存在するというのは傲慢な考え方かもしれませんが、どんな映画でも観客を楽しませようとする意図が作り手から感じとられるものです。
しかし、映画「ハウス・ジャック・ビルト」は、そんなことは全くなく、観客が想像したものとは違うものを提供しています。シリアルキラーというジャンルの映画として見にいく人も多いと思うのですが、そんな期待を嘲笑うかのように不快な映像を躊躇なくお見舞いしてきます。
ただ不思議なことに、面白いのがこの映画の憎めないところでもあります。いくらグロテスクで目を覆いたくなったとしても、続きが気になってしまう、次は何が起きるのかと期待してしまう…そんな私たちの悪趣味な性も含めて、監督の手の平の上で踊らされていたのかもしれません。
【解説】ラース・フォン・トリアーの才能と異常性が爆発した映画

世界中に賛否両論の嵐を巻き起こした問題作の映画「ハウス・ジャック・ビルト」。この映画はデンマークの映画監督ラース・フォン・トリアーによって作られました。
彼は「ドグマ95」というデンマーク初の映画運動の発起人で「純潔の誓い」とも呼ばれています。これには映画を制作する上での10個のルールが設けられており、ルールを守って作られた作品のみがドグマ映画として認められるというものでした。
その誓いの1つに「表面的なアクションは許されない(殺人、武器の使用などは起きてはならない」というのがありますが、映画「ハウス・ジャック・ビルト」はこれとは真逆の映画であることは間違いありません。
1984年から活動を開始しており、今日に到るまでに相当な作風の転換があったことが伺えますが、この監督の特徴として異常なまでの過激な表現というのがあります。
また、「ダンサー・イン・ザ・ダーク」でカンヌ国際映画祭パルムドールを受賞した経歴を持っており、ここ最近は「鬱三部作」(「アンチクライスト」「メランコリア」「ニンフォマニアック」)と呼ばれる映画を作っています。
独特の作風を持つ映画監督でありながら、確かな作品力を持っている実力派でもあります。そんなトリアーが作った最新作が映画「ハウス・ジャック・ビルト」なのです。繰り返しになりますが、なぜこんなものを作ったのでしょうか?
物議を醸す作品を次々と世に送り出し、圧倒的なビジュアルセンスを持ちながらも、この作品では、それが異常なまでにマッドな演出によって表現されています。
グロテスクなシーンの連続、倫理的な嫌悪感をことごとく刺激していく監督のサディストぶり、映画を向き合いながら我慢比べをしているかのような気分にさせられます。
この映画監督はどこに進もうとしているのか、おそらく誰にも見ることができない世界をただ1人追い続けている孤高な存在になっているのでしょう。
【解説】シリアルキラーで悪趣味、でもどこか人間味があるジャック

この映画に登場するシリアルキラー「ジャック」。何の情報も入れずにこの映画を見たので、「昔アメリカに実在したシリアルキラーの半生を描いたドキュメンタリータッチの映画かな」と思ったのですが、どうやらこの映画はそうではないようです。
だとしたら本当に「何なんだこの映画!」と感じてしまうのですが、本当にあった出来事を描いているかのような、それを信じ込ませてしまうリアリティがあったと解釈することもできます。
実在のシリアルキラーのエピソードをモチーフにしているという記事も見られたので、殺人鬼の手口や心理を綿密に調査してこの映画の制作に取り組んだことが伺えます。
さて、映画「ハウス・ジャック・ビルト」に登場するシリアルキラー・ジャックは殺人鬼という時点で異常なのですが、それ以上に悪趣味な感性も際立っています。
ジャックは建築技師を志しており、自分で家を建てようとするほどでもありました。殺人をアートと考えており、どこか身勝手な論理で自分の行為を正当化しようする部分もありました。
そして、殺害した子供の顔を無理やり笑顔にしてみたり、殺害した人々を使って家を建ててみたり(まさにハウス・ジャック・ビルトなわけですが)、女性の乳房を切り取って財布にしてみたり、書いているだけでも思い出して不快になる悪趣味なアートを作り続けていきます。
ジャックの幼少期のシーンではアヒルを網で捕まえて、足をペンチで切って、川に戻すというみているだけで居たたまれなくなるような場面もありました。
そして、殺人を犯す際は狡猾に人を騙したり、それでも徐々に手口が雑になっていたりと、サイコパスなのですが、それとは別に人間味を感じてしまいます。
ジャックは強迫性障害を患っており、神経質な面もありました。2つ目のエピソードで女性を殺したときには、家の中に血痕が残っていないか何度も確かめに戻るといったシーンもありました。
早く逃げないと見つかってしまうにもかかわらず、それでも家の中が気になって戻ってしまうというのは、何だかコミカルな印象を受けてしまいます。
異常な人格を持ち、悪趣味なまでに拗らせた感性を持っていながらも、イライラしたり、怒りを露わにしたり、どことなく人間らしさを持ち合わせています。
また、そういった執着心や彼の行動は恐ろしくもありながら、同時に笑ってしまいたくなるほど滑稽でもあります。そうした極限的なバランスによって、バイオレンスとコメディが共存していたというのもこの映画の不思議な魅力でもあります。
サイコスリラーなのにちょっと笑える、ゾッとして、拒絶反応さえ起きてしまいそうになるにもかかわらず、この映画から目が離せなくなってしまうのには、こういった要素も含まれているからだといえます。
この映画に関して、監督のトリアーは「人はだれでもシリアル・キラーになれる。もしこの映画にメッセージがあるとすれば、そういうことになるだろうな」と語っています。シリアルキラーという異常な人間を描いている中でも、そういったキャラクターはもともとは普通の人間だったと解釈できます。
現実にもこういった事件は多かれ少なかれ発生しているものです。その度に私たちは犯人を異常者のように扱い、自分たちとは違う種類の人間としてみなしています。
それは、そうすることによって自分たちが普通であることを確認して安心したいという心理もあるでしょう。しかし、映画「ハウス・ジャック・ビルト」では、あくまで1人の人間としてのジャックが人の道を外れ、殺人者になってしまうというキャラクターの造形がなされています。
そして、このジャックを演じたマット・ディロンの演技は素晴らしいものがありました。観客を恐怖の淵に引き摺り込み、ジャックというキャラクターの異常性と存在感を際立たせています。
【考察】ラストシーンの意味

映画「ハウス・ジャック・ビルト」のラストでは、少し様相が変わった演出がなされています。警察がジャックの所有する倉庫に突入しようとする中で、ジャックも焦っていたのですが、ジャックが死体で作った家の床に大きな穴が空いているのを見つけます。
それに導かれるようにジャックは穴の中へと進んでいき、これまで語り相手となっていたヴェージと出会います。
ヴァージとともに穴の中を進んでいくと、地獄の底へ繋がる崖にたどり着きます。崖を渡るための橋は途中で崩れているために渡ることができません。そこでジャックは崖の周辺をボルダリングのように渡っていくのですが、途中で力尽きて地獄へ落ちていきます。
ラストシーンはさながらSASUKEのサードステージのようでしたが、劇中でも一気に毛色が変わるシーンに繋がっていくので少しの戸惑いがありました。
ジャックはもともと家を建てる際に材料を非常に重視しており、自分だけのオリジナルな材料を使ってこそアートとしての理想の家を建てることができると考えていました。
そこで殺人の罪を重ねていき、死体というジャックにしか得られない独自の材料を使って家を建てることにします。そして、その家が地獄への入り口となっていたのです。
劇中に登場するヴァージは古代ローマの詩人ウェルギリウスがモデルになっており、この人物はダンテが執筆した「神曲」の中でダンテを地獄案内の旅に連れていく人物でもあります。
ジャックもヴァージに導かれる形で地獄へと入っていき、最終的に地獄の底へ繋がる場所へとたどり着きます。最終的にジャックは地獄に落ちて、悪人は裁きを受けるといったラストだったわけですが、だからといって何の解決にもなりませんね。
異常で残酷、不道徳で不愉快な作品だが面白い!
映画「ハウス・ジャック・ビルト」は、面白い/面白くない、愉快/不愉快など賛否両論分かれる映画だとは思いますが、見た人に圧倒的なインパクトを与えることは間違いありません。
唯一無二の鬼才・ラース・フォン・トリアー監督の容赦ない映像の暴力に耐えられるかどうかはわかりませんが、彼の偉大な才能を感じさせるには十分すぎるほどの完成度です。
大きな声でおすすめすることは絶対にできませんが、それでも見る価値がある映画だと思いますので、ぜひ一度ご覧になってみてください。