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映画『この世界の片隅に』ネタバレ感想・解説・考察!反戦映画ではない?世界に居場所を見つけるための物語

こうの史代の世界を恐ろしく深く掘り下げたアニメーション

映画『この世界の片隅に』は、戦争中の呉に生きる女性・すずの様子を描いた作品です。戦争映画はその特性上、戦争そのものに焦点が当てられるとともに、戦争についての強いメッセージ性を持つことが多いものです。

しかし、本作を見れば戦争とは決して切り取られたファクターではなく、人生における出来事のひとつであり、そこには今と同じく普通の人間による、普通の営みがあったのだと知ることとなるでしょう。

今回はそんな『この世界の片隅に』の感想や解説、考察を紹介します。ネタバレを多く含んでいるので、視聴前に読む場合は十分にご注意ください。

映画『この世界の片隅に』を観て学んだこと・感じたこと

・これまでに見られないタイプの戦争映画
・すずの生き方に、「普通」の尊さを知る
・年齢や好みを問わず、あらゆる人に見てもらいたい作品

映画『この世界の片隅に』の作品情報

公開日2016年12月11日
監督片渕須直
脚本片渕須直
出演者北條すず(のん)
北條周作(細谷佳正)
黒村径子(尾身美詞)
黒村晴美(稲葉菜月)
水原哲(小野大輔)

映画『この世界の片隅に』のあらすじ・内容

映画『この世界の片隅に』のあらすじ・内容(C)こうの史代・双葉社/「この世界の片隅に」製作委員会

広島市の海苔梳きの家に生まれたすず。マイペースな性格をしており、絵を描くことが得意な女の子です。想像力豊かで、よく絵を描いては、そこから作り上げた物語を妹に聞かせていました。

平凡とも思えるような人生を送る彼女は、やがて呉市にある北條家へ嫁ぐこととなります。

相手は呉鎮守府の書記官である北條周作です。すずは周作の嫁として、北條家の家事を取り仕切り、懸命にその日を生きていきます。時は1944年、太平洋戦争の真っただ中でした。

映画『この世界の片隅に』のネタバレ感想

こうの史代の世界を恐ろしく深く掘り下げたアニメーション

こうの史代の世界を恐ろしく深く掘り下げたアニメーション(C)こうの史代・双葉社/「この世界の片隅に」製作委員会

2016年に公開されてすぐに口コミによる評判が広まり、高い評価を得た映画『この世界の片隅に』。原作はこうの史代による同名の漫画であり、雑誌『漫画アクション』において2007~2009年に連載されました。2011年と2018年には、2度にわたってテレビドラマ化されています。

本作は、広島と戦争がテーマのひとつとなっています。こうの史代の代表作である『夕凪の街 桜の国』もまた、戦争と広島をテーマとした作品でした。しかし、同作によって原爆作家と扱われることに疑問があった作者は、もう一度戦争と広島をテーマとして、そこに生きる人に焦点を当てた作品を作ることとなります。その結果誕生したのが、『この世界の片隅に』です。

 

映画『この世界の片隅に』の監督は片淵須直。アニメ好きな人にとっては有名な監督のひとりでしょう。いくつものアニメーション作品において、絵コンテや脚本を手掛けているか片淵は、有名なジブリ作品のひとつである『魔女の宅急便』で演出補を担当しています。監督作品としてはTVアニメ『名犬ラッシー』のほか、アニメ映画としては『アリーテ姫』、『マイマイ新子と千年の魔法』などが有名です。

片淵の作品といえば、人によっては『BLACK LAGOON』も外せないでしょう。あのクライムアクション作品もまた、片淵が監督および脚本を担当しています。作風がまるで違う『この世界の片隅に』を手掛けていることに衝撃を受ける人もいれば、腑に落ちるという人もいるのではないでしょうか。

さまざまなジャンルのアニメを手掛けてきた片淵ですが、こうの史代にとって、片淵須直が自身の作品を担当してくれることは何よりも衝撃だったといえるでしょう。というのも、彼女は『名犬ラッシー』に憧れていたといい、片淵によるアニメ化はまさに運命だったと喜んだそうです。

 

そんな映画『この世界の片隅に』では、こうの史代のキャラクターがそのまま映し出されたかのようなアニメーションが広がるのが特徴です。彼女の作風にマッチしたキャラクターデザインはもちろんのこと、全編を通じて描かれる主人公すずの生活感は、これ以上ないほどのリアリティを持って描かれます。

特に、全編を通じて登場する日常の生活シーンでは、作画枚数を多くすることによってゆったりとした動作を演出しており、単なる生活の様子を生々しく映し出すことに成功しています。

アニメーションによって当時の呉の様子が印象強く描かれている点も見逃せません。実際、映画制作に際して片淵は何度も呉の街へ足を運び、入念なロケハンを行っています。それだけではなく、戦時中の天気や当時の店の品ぞろえ、さらには空襲警報の発令時刻も含めて調査するなど、徹底的な時代考証を行っているのです。

また、設定だけではなく、広島弁と呉弁のアクセントの違いにも配慮するなど、台詞を含めた細部にも並々ならぬこだわりが貫かれています。しかし、そのこだわりのおかげで、こうの史代の世界がフィクションでありながらも、異常なまでのリアリティを有して立ち上ることとなるのです。

ほのぼのとした呉の日常の先に、嫌な予感が拭えない

ほのぼのとした呉の日常の先に、嫌な予感が拭えない(C)こうの史代・双葉社/「この世界の片隅に」製作委員会

本作は、広島で生まれたすずの幼少期に始まり、18歳で呉へ嫁ぎ、そこで彼女が戦争を体験する様子が描かれています。

すずはマイペースで、ちょっとぬけているところがあります。家事はほぼ一通りこなせるものの、裁縫だけは苦手。絵を描くことを得意としている以外は、いたって普通の女性です。なお、原作では大人の女性としての側面が強く描かれているのに対して、映画のすずは少女のような雰囲気と、強い女性としての特徴を併せ持つキャラクターだといえるでしょう。想像力に富んでおり、しばしば現実の世界から空想の絵画を通し見たり、描いた絵をもとに物語を作り上げたりする様子が見られます。

 

1944年、北條家の長男である周作に嫁いでからのすずは、家事を切り盛りしていきます。周作は呉鎮守府の書記官、その父親である円太郎は広海軍工廠技師です。母のサンは足を悪くしており、できる範囲ですずの家事を手伝いますが、いわゆる嫁姑のような諍いはなく、広島から来たすずに優しく接します。

一方、すずが嫁いで間もなく、周作の姉である径子が、娘の晴美を連れて戻ってきます。当時としては珍しい恋愛結婚をした径子は、自分の意見をはっきりと述べるタイプであり、すずとは対照的なキャラクターです。マイペースで事にあたるすずにきつい言葉を投げつけることが多いものの、だんだん周作の嫁として彼女のことを認めるようになります。また、娘の晴美は礼儀正しく、初めからすずを姉のように慕っているのが印象的です。

そんな家族に囲まれて過ごすすずは、里帰り、径子の離縁による同居、小学校時代の同窓生である水原哲との再会などを経て、戦時中の呉を生きていくこととなります。その様子からは、戦時中であるとは思えないくらいにほのぼのとした雰囲気が感じられることでしょう。

むしろ、時折挟まれる展開はコメディ作品のようであり、狙いすましたかのような笑いをもたらします。憲兵がすずの描いた絵を「間諜行為」として詰問したときには一瞬の緊張感が走りますが、それすら憲兵の勘違いという点でもって笑いに転化されます。こうした展開に、戦争から想起される暗いイメージを感じ取ることは難しいといえるでしょう。

しかし、その平和的な様子とは裏腹に、場面が切り替わるごとに表示される日付が、見る人へ緊張感をもたらします。それもそのはず、本作の舞台は原爆が投下される広島です。軍港のある呉もまた、1945年には呉軍港空襲によって甚大な被害を被った場所でした。表示される日付はまさにカウントダウンとして、嫌な予感を伝えてくるのです。この平和な日常がいつ崩れてしまうのだろうと、心配をせずにはいられません。

【解説】戦争映画ではあっても、反戦映画ではない?

【解説】戦争映画ではあっても、反戦映画ではない?(C)こうの史代・双葉社/「この世界の片隅に」製作委員会

映画『この世界の片隅に』は戦争映画です。しかし、本作から反戦というメッセージを読み取ることは難しいといえるでしょう。また、単なる戦争映画とは異なり、戦争そのものに主眼が置かれているとは言い難い点も本作の特徴のひとつといえます。

戦争映画や反戦映画にありがちな特徴のひとつは、戦争そのものが作品の焦点となっているという点です。悲惨な戦争によって焦土と化した国や死屍累々たる有様を映し、それをもたらしたのも人間なのだとして、戦争行為の愚かさを訴えるのはよくある手法でしょう。

もしくは戦争による悲劇的な展開を登場人物に負わせて、その人物を依り代にして反戦のメッセージを突きつけることもあります。いずれにしても、こうした作品の中心にあるのは「戦争の愚かさ」であり、戦争そのものが作品全体に大きな影を落としているといえるのです。

 

もちろん、『この世界の片隅に』もまた戦争がありますが、作品の焦点となっているのは戦争ではなく、あくまでそこに生きる人間です。しかも、戦争の主体として戦う兵隊ではなく、戦時中であっても普段の生活を生きる普通の人間なのです。

確かに、戦争によって家は焼け人は死に、人々がこれまでと同じ生活を送ることはできないでしょう。けれども、戦争があっても終戦を迎えても、すずの生活は途絶えることなく、連続する人生として流れていくのです。戦争が人生における出来事のひとつとして捉えられているところが、他の戦争映画とは大きく異なる点だといえるでしょう。

戦争を体験していない人が戦争を考えるとき、体験していないがゆえに、戦争がどうしようもなく自身から遠く離れたもの、自身から断絶したものとして捉えがちではないでしょうか。映画というフィクションにおいては、その点が否が応でも強調されることとなるでしょう。

しかし、本作では戦争というファクターをすずの生活におけるひとつの通過点として描いています。その描き方は、戦争を過去に起きた悲惨なものとして切り離すのではなく、我々の生きる時代が戦争のあった時代から地続きであることを認識させてくれるのです。

【考察】この世界におけるすずの居場所とは

【考察】この世界におけるすずの居場所とは(C)こうの史代・双葉社/「この世界の片隅に」製作委員会

戦争に焦点を当てた作品ではないとはいえ、すずの心身に変化がなかったのかといえば、そうではありません。むしろ戦争によって、すずには3つの大きな受難が襲いかかることとなります。

受難のひとつは晴美の死です。すずは晴美を連れて、軍の病院に入っている円太郎の見舞いに行くことになります。その帰り、呉に響き渡る空襲警報によって、ふたりは防空壕へ避難することに。からくも爆撃をしのいだすずと晴美ですが、径子のもとへ向かう途中、戦闘機が投下した時限爆弾の爆発に巻き込まれてしまい晴美は亡くなります。

本作で印象的な演出のひとつに、死の描かれ方があります。本作では、人の死に対して過剰に悲しむといったシーンはほとんど見られません。すずの兄が戦地で亡くなったときも、家族の様子はあっけらかんとしたものでした。また、すずの両親が原爆で死亡したことについても、すずは冷静に受け止めているように見えます。それは、戦争という異常な事態において、普通であることを保とうとする働きなのか、もしくは死が日常のものとなり精神が摩耗した結果なのかはわかりません。

いずれにしても、晴美の死によってすずは深い悲しみに見舞われ、径子からはすずのせいで晴美が死んだと責め立てられることになります。

晴美の死がすずに重くのしかかるのは、ひとえに自責の念によるものです。すずは町内の会合において、時限爆弾の特徴を聞かされていました。それにもかかわらず、時限爆弾に気付くのが遅れてしまったと彼女は己を責めます。あらかじめ注意深く行動していれば、せめて晴美だけでも助けることができたのではないかと考えてしまうのです。

 

もうひとつの受難は、その時限爆弾によってすずが右手を失うことです。本作では冒頭から、すずが絵を描く様子が頻繁に描かれています。絵を描くことはすずにとって、世界とつながるための方法であり、日常の一部であり、彼女にとっての普通なのです。

右手を失い、すずは絵を描くことができなくなりました。それは彼女にとって普通から遠ざかることであり、日常の一部を失うことであり、そして世界から切り離されて居場所を失うことと同義です。右手を失った彼女は、これまで自身の右手が触れてきたものを反芻していきますが、そのシーンは彼女の心象風景を写し出すかのようにして、歪になっていきます。加えて、晴美を死なせたという自責の念が、すずの精神に影を落としていくことに。

それでも、です。それでも、自責の念に堪え切れずいったん家を出ていこうとしたすずは、径子と和解し、周作を愛するようになって自分の居場所は呉であると決め、そこで生き続けていきます。晴美を失い右手を失ってなお、彼女は世界のなかで、呉に自分の居場所を見つけることができたのです。

 

しかし、彼女が見つけた居場所はまだ戦時中であり、平時とはほど遠い場所にあります。すずに襲いかかる最後の受難、それは終戦です。なぜ終戦が受難になるのでしょうか。

物語の終盤、玉音放送を聞いた北條家の様子は、表面上はあっけらかんとしたものでした。けれども、すずはこの放送によって作中で取り乱すこととなります。

「最後の1人まで戦うんじゃなかったかね!」
「まだ左手も、両足も残っとるのに!」
「だから我慢しようと思ってきた、その理由が……」

すずの独白から、誰かの死も右手の喪失も、戦争があったから我慢ができた、仕方のないものとして理由付けすることができたと考えられるのではないでしょうか。

しかし、戦争があっけなく終わり、これまで信じてきた理由が何とも脆いものだったと気がついたすず。このときになってようやく、晴美の死も、右手の喪失も、外部に理由付けされたものではなくて、自分自身の悲しみとして受け入れることができたのだと考えられます。それは、玉音放送を聞いたのちに、同じく晴美を思って泣き崩れていた径子も同様です。

終戦によって、失ったものを自分のものとして受け入れることができたのだとすれば、すずはようやく人間として、普通になったのでしょう。彼女の同窓生であった水原哲は腕を失う前のすずに対して、こんなことを話していました。

「お前だけは、最後までこの世界で普通で、まともでおってくれ」

巡洋艦に乗っていた水原は戦争が異常なものであり、まともなものではないということを理解していたのでしょう。そして、当時まだ何も失っておらず、その日を生きていたすずが、普通でまともな人間であったことを理解していたのでしょう。

戦争によって一度は異常な世界に足を踏み入れてしまったすずは、終戦とともに発した慟哭によって、ふたたび普通の世界に戻ってきました。水原の願いは期せずして彼女のもとへ届いたといえるのです。

【解説】見ると元気をもらえる作品

【解説】見ると元気をもらえる作品(C)こうの史代・双葉社/「この世界の片隅に」製作委員会

「戦争映画を見て元気になる」という感想がいささか妙なものであり、ともすれば不謹慎であることは承知のうえです。それでも、本作は見る人にある種の元気を与える映画だといえます。

確かに戦争は悲惨なものです。戦争を体験したすずにとっても、これまでと同じ彼女のままではいられないでしょう。しかし、すずにとって戦争はあくまで出来事のひとつであり、紆余曲折はあっても彼女の日常を変えることはありませんでした。彼女の生活は戦争が終わっても、これまでと同様に続いていくのです。

物語のラストで、原爆に被爆し、街をさまよう少女がすずに引き取られるシーンがあります。少女の母親は原爆によって右手を失い、亡くなっていました。彼女はすずの失った右手を見て母親の姿を重ねたのでしょう。

戦争による右手の喪失が、誰かの新しい居場所を作るきっかけになっているのです。それだけに、すずと少女の出会いは強く印象に残ります。ふたりの出会いは、戦争があろうとなかろうと、もっとも大切にされるべきものはそこに生きる人間の強さだというメッセージのようにも見えるのです。

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