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『劇場版 はいからさんが通る 後編』ネタバレ感想・考察!芯が強くユーモアな大正時代のはいからさん、38年越しのアニメ完結編!

少女漫画の名作「はいからさんが通る」のエンディングの初アニメ化!

原作コミックとそのテレビアニメの両方がヒットして70年代に一世を風靡、以降もコンスタントにメディア化され人気を誇っている『はいからさんが通る』ですが、作者である大和和紀さんの画業50周年作品として、2017年と18年に前後編2部作としてアニメ映画化されました。

前回の前編「劇場版 はいからさんが通る 前編 ~紅緒、花の17歳~」のレビューに続きまして、後編『劇場版 はいからさんが通る後編 〜花の東京大ロマン〜』のネタバレと解説、考察を含めた感想を書かせていただこうと思います。後編は、いよいよアニメ化作品としてはじめてエンディングが描かれる事になります!

「劇場版 はいからさんが通る後編 〜花の東京大ロマン〜」を観て学んだ事・感じた事

・「はいからさんが通る」のエンディングが初アニメ化され、ようやく話が分かってすっきり!
・大正時代と現代のリンクは考えさせられた
・自立する女性のあり方の理想像、その描かれ方が見事

「劇場版 はいからさんが通る後編 〜花の東京大ロマン〜」の作品情報

公開日2018年
監督城所聖明
脚本古橋一浩
原作大和和紀
出演者花村紅緒(早見沙織)
伊集院忍(宮野真守)
青江冬星(櫻井孝宏)
鬼島森吾(中井和哉)
藤枝蘭丸(梶裕貴)
北小路環(瀬戸麻沙美)

「劇場版 はいからさんが通る後編 〜花の東京大ロマン〜」のあらすじ・内容

「劇場版 はいからさんが通る後編 〜花の東京大ロマン〜」のあらすじ・内容(C)大和和紀・講談社/劇場版「はいからさんが通る」製作委員会

大正時代、日本陸軍の少尉・伊集院忍と婚約した女学生の花村紅緒でしたが、自分の酒乱が原因で少尉がシベリア出兵となり、戦地から訃報が知らされます。一家の大黒柱を失った伊集院家のために、紅緒は働いて伊集院家を支える事を決意、出版社に入ります。

その出版社に、「満州で馬賊が暴れまわっており、その首領が元日本軍の軍人だ」という情報が寄せられます。紅緒は馬賊の棟梁とは少尉のことではないかという期待を寄せ、満州へ渡ります。残念ながらそうではなく期待が外れた紅緒ですが、ロシアから日本に来た亡命貴族が少尉と瓜二つである事に衝撃を覚え、彼を調査します。彼は少尉でしたが、記憶を失っており、紅緒を理解する事が出来ません。

 

そして、紅緒は自分の上司である編集長・青江冬星に告白されます。一方、少尉は自分の実家に来た事で記憶を取り戻して紅緒と語りますが、少尉には戦地シベリアで自分を救ってくれた妻ラリサがおり、紅緒とよりを戻す事が出来ません。

そんな折、紅緒と冬星の結婚が決まります。教会で式を挙げている最中、関東大震災が訪れ、東京は火の海と化します。紅緒を救うべく、少尉は教会に向かいますが…。

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「劇場版 はいからさんが通る後編 〜花の東京大ロマン〜」のネタバレ感想

少女漫画の名作「はいからさんが通る」のエンディングの初アニメ化!

少女漫画の名作「はいからさんが通る」のエンディングの初アニメ化!(C)大和和紀・講談社/劇場版「はいからさんが通る」製作委員会

70年代に一世を風靡した「はいからさんが通る」を最初に見たのはテレビアニメでした。一世を風靡しただけあって大変な面白さで、コミカルな表現とシリアスな展開、そして主人公である紅緒の魅力にすっかりはまってしまいました。

しかし、テレビアニメ版「はいからさんが通る」は、モスクワオリンピックの放送の関係で、話なかばで打ち切りとなってしまい、結末がはっきりしないまま放り出されたので、楽しく観ていた私はとても残念に感じたことを覚えています。同じ思いをした人は少なくないのではないでしょうか。

その後『劇場版 はいからさんが通る』の制作が決定し、この後編が無事制作された事で、ようやくアニメーションとして初めて完結まで描かれる事になりました。これは往年のファンだった私にとってはとても嬉しいことで、ようやく「はいからさんが通る」に区切りがついた気持ちになれました。

はいからさんの漫画的な描写は後編でも健在

はいからさんの漫画的な描写は後編でも健在(C)大和和紀・講談社/劇場版「はいからさんが通る」製作委員会

さて、劇場版の前編では、あらたなデザインとなった主人公・紅緒のコミカルな表現(特に二つの酒乱シーンは最高です)に笑い、またそれがとても可愛いらしく感じましたが、後編でも紅緒のコミカルさは健在でした。

まずは前編からの伝統である酒乱シーンです。婚約者であるものの、死亡を伝えられた少尉が生きているのではと一縷の望みを託して満州まで行った紅緒が、馬賊の棟梁と出会い、話をします。

序盤のこの場面ではやくも酒乱シーンが登場します。馬賊の棟梁を少尉だと思っていた紅緒でしたが、その正体が少尉の部下・鬼島軍曹だと知って落胆します。少尉がシベリア遠征に行くきっかけを作った紅緒は、その事を鬼島軍曹に打ち明けて涙し、そしてテーブルに置いてあったウォッカを飲み始め…完全にやけ酒です。例によって目が座り、ろれつが回らなくなり、顔がパンパンに膨れ、ウォッカのボトルを次々に空にしていきます。紅緒さん、素敵です。

酒乱系では二日酔いに懲りた紅緒が、ウォッカはいらないと言いながら、「少しぐらいなら」とさりげなく鬼島軍曹にウォッカのお土産をねだるシーンの紅緒の表情も必見です。酒の誘惑に勝てません。

 

また、前編にはなかったコミカルシーンとして、少尉がいなくなって稼ぎ手のなくなった伊集院家で、紅緒が稼ぐことを決心して務めることになった出版社でのゴキブリとの対決シーンというものがあります。

出版社の入っているビルは綺麗な西洋建築ですが、なにせ古いもので給湯室には頻繁にゴキブリが出没します。有段者をも倒す剣道の腕前を持つ紅緒とゴキブリの対決は、隣の部屋のお客さんに全部きこえていますし、倒したゴキブリがお客さんに出すお茶の中に入る事もあります。さすがはいからさんです。

 

そして物語の最終盤では、ある理由で紅緒は生きるか死ぬかの状況に陥ります。状況はますます悪くなり、もう絶望的と思えたその時に、煙の向こうに紅緒がおぼろげに見えてきて一言「主人公は死なず」。それでこそはいからさんです。

他にもコミカルなシーンが満載で、しかもそれが紅緒の人間味ある魅力と直結している所がとてもよかったですね。

【考察】蘭丸というキャラクターは何を表現しているのか

【考察】蘭丸というキャラクターは何を表現しているのか(C)大和和紀・講談社/劇場版「はいからさんが通る」製作委員会

さて、そんなはいからでお転婆な紅緒には、蘭丸という女のような顔立ちをした男の幼なじみがいます。彼女は歌舞伎役者の女形になるために日々努力しており、後編では見事その夢をかなえていて、紅緒より美人で、少尉も最初は蘭丸を自分のいいなずけと勘違いしたほどです。

こうした蘭丸というキャラクターですが、実写版『はいからさんが通る』ではカットされるほど、彼がいなくても物語自体が成立してしまうのですが、では彼がいると物語がどう変わるのでしょうか。

 

恐らく答えはシンプルで、紅緒と正反対のキャラクターを描く事で、紅緒を引き立たせようとしたのではないかと思いました。物語を通じて、紅緒は「胸がえぐれている」「ちんくしゃ」など、あまり美しくない言われ方をしますが、実際には容姿が整っていて、少なくとも見た目は女らしく魅力的なのです。

主人公である以上は魅力ある人物に描かなければ、感情移入できないだろうからそうするのでしょうが、物語上は自立心ある、ある意味で男勝りである人物でなければ、「自立した女性」を描くこの物語自体が成立しなくなってしまいます。そこで、紅緒も美しいが、それ以上に美しいとされるキャラクターを対比的に描いておく必要があったのではないでしょうか。

対比されるのは、容姿だけではありません。紅緒は、日本の古い因習を打ち破って新しい時代の価値観を表現していくキャラクターです。一方の蘭丸は、歌舞伎という江戸時代から続く日本の因習そのもののような世界に所属しています。紅緒が時代の最先端を行く男勝りの女であるのに対し、蘭丸は古風で伝統を重んじる世界に生きる女みたいな男なのです。

蘭丸はいなくても物語が成立するキャラクターですが、いると主人公がより際立ち、物語の主旨がつかみやすくなるスパイスのようなキャラクターとして、あったのではないかと思いました。

【考察】幕末・明治を引き継ぐものと、大正デモクラシーを表現するものの対比

【考察】幕末・明治を引き継ぐものと、大正デモクラシーを表現するものの対比(C)大和和紀・講談社/劇場版「はいからさんが通る」製作委員会

蘭丸と紅緒、あるいは少尉と紅緒の対比は、この物語の根幹に関わるもののように感じました。幕末から明治にかけての日本が持っていた美感と、大正デモクラシー以降の日本が得ることになった美感の対比です。

シベリアで命を落としたかに見えた少尉でしたが、ロシアの没落貴族であるラリサという女性に助けられます。ラリサは亡き自分の夫と瓜ふたつの少尉を見つけ、少尉が記憶喪失になっている事を口実に、彼を自分の亡夫・サーシャだと少尉に伝えます。

そして二人はロシア革命に追われ、日本へ亡命します。そこで伊集院家を訪れた少尉は記憶を取り戻し、紅緒と対面します。

 

しかし、少尉はすぐに紅緒とよりを戻す事をせず、紅緒に「僕に時間を下さい」と告げます。紅緒に心がありながら、自分の命を救ってくれた命の恩人・ラリサの行為を裏切る事が出来なかったためです。自分の気持ちよりも筋や義理を優先したわけですが、これは旧来の日本の美感を表現したものと感じました。個人の意思を尊重していく事になる大正以降の民主意識とは対照的なものです。

実は紅緒も同様の美感を持っています。紅緒も少尉を愛しています。しかし、ラリサの気持ちを慮って少尉に別れを告げ、自分に告白をしてくれた自分の上司である編集長の愛を受け入れます。この決断の根底にあるものもやはり筋や義理を優先したものであって、やはり大正以前の日本にあった美感のあらわれであるように感じました。

【ネタバレ】「はいからさんが通る」のエンディング。自立する女性のあり方の描かれ方

【ネタバレ】「はいからさんが通る」のエンディング。自立する女性のあり方の描かれ方(C)大和和紀・講談社/劇場版「はいからさんが通る」製作委員会

一方で、大正デモクラシー以降の美感は、紅緒のキャラクター自体に表現されているように感じました。

少尉も紅緒を強く想い、また紅緒も少尉を強く想っているにかかわらず、二人とも義理によって身を引いてしまいます。そして、紅緒と編集長の結婚式の日、1923年9月1日を迎えます。関東大震災が起きる日です。この日、重い病に苦しんでいたラリサが息を引き取ります。

紅緒と編集長が指輪を交換する直前に大震災が起きます。教会は崩れ、教会ばかりかあたり一面が火の海と化します。少尉は紅緒を救うべく教会へと向かい、瀕死の紅緒を救いますが、二人は絶望的な状況です。ここで二人は互いの思いをぶつけ、強く抱き合い、キスを交わします。

この物語のクライマックスにもあらわれているように、「はいからさんが通る」が表現している「はいから」というモダニズムの表現は、個人の意思の尊重という点にあるように感じました。仮に選択の根底にあったものが義理や自己犠牲であったとしても、決定自体はあくまで自分の意志によるものなのです。物語の序盤で、親の決めたいいなずけとの結婚に反発したのも、そして物語のクライマックスで自分の正直な愛の気持ちをぶつけたのも、キーワードは自分の意志、という所にあったのではないかと感じました。

 

また、自分の意志を強く持つという点だけでない所に、主人公である紅緒の魅力、ひいてはこの物語が暗に主張している理想的な現代人のあり方が描かれているように感じました。自分がしたいようにするだけなら、それは単なるエゴとなるでしょう。

実際に、自分や仲間さえ良ければいいという考え方が確立している文化や世界もあります。自国の利益だけを優先した政治的な交渉などもそれでしょう。しかし、はいからさんも少尉もそうはしません。社会的に筋を通すという前提を踏まえた上で、自分の意志を示すのです。紅緒が自分の意見だけを押し通すキャラクターであったなら、魅力的な物語にはならなかったでしょうが、「はいからさんが通る」がここまで魅力的なストーリーになったのは、紅緒自体が、自由主義社会の中で理想的な人物であるからではないかと思いました。

そして、最初は対照的に描かれていた少尉と紅緒は、このクライマックスで同じ価値観を持つ人物となります。これは一種の結論であって、「はいからさんが通る」のクライマックスであると感じます。

ちなみに、クライマックスシーンの「炎をバックに、ドレスを着た女性が軍人に抱きかかえられてキスをする」という構図で思い出すのは、名画『風と共に去りぬ』を思い出させます。オマージュだったのかも知れません。

【考察】大正時代と昭和70年代、環というキャラクターが表現しているもの

鬼島森吾:CV中井和哉/(C)大和和紀・講談社/劇場版「はいからさんが通る」製作委員会(C)大和和紀・講談社/劇場版「はいからさんが通る」製作委員会

さて、「はいからさんが通る」には、蘭丸と同じように、仮にいなかったとしても話は成立するけれど、いると物語が見えやすくなるキャラクターがもう一人いるように感じます。女学院での紅緒のクラスメイトにして親友でもある北小路環(たまき)です。環は紅緒ですらあこがれるほどの「はいからさん」で、「女性自身が自分で決める」といった事を最初に発言したのも彼女でした。

環は蘭丸に似て、作者の主張を強化するキャラクターなのだと思います。ただし、その役割は蘭丸とは反対で、紅緒の対照を描くのではなく、紅緒と同じ主義を持つ人物である点が重要なのだと思います。

もし環がいなかった場合、筋を通したうえで自己主張するのは、単に紅緒がそういう性格なのだという事になってしまいかねませんが、同じ考えを持つ環がいる事で、こうした人物を時代思潮として捉える事が可能となっているのだと思いました。

 

「はいからさんが通る」の物語の見事なところは、それが作者の空想だけで成り立っているのではなく、時代とリンクしている点にあると思います。このリンクは物語の舞台となった大正時代の事でもあり、また「はいからさんが通る」が書かれた1970年代後半の事でもあるように感じました。

どちらも旧来の価値から、新しい価値の時代へと移り変わる瞬間でした。1960年代前半まで、日本は見合い結婚が恋愛結婚を上回っていました(1960~64年の厚生労働省の統計では、見合い結婚49.8に対し恋愛結婚41.1)。

ところが、「はいからさんが通る」が書かれた70年代後半となるとこれが大きく逆転します(1975~79年で見合い30.4、恋愛66.7)。日本で初めてウーマン・リブ大会が開かれて盛り上がりを見せたのも1970年代です(第1回大会は1970年11月14日)。

大正時代の社会様相もこれに近いものがあり、大正デモクラシーはもとより、女性の社会進出も時代の特徴の一つとなっています。映画の前編で、環が「平塚らいてう」の名を出していますが、らいてうは大正時代の女性運動の先駆者です。

 

子どもの頃、アニメやコミックの主人公に感化されて「私もあの主人公のようになりたい」と思ったことはないでしょうか。それって、暗に時代が求めている理想像なのではないかと思います。弱きを助け強きをくじくなど、形は色々あるとは思います。

「はいからさんが通る」における紅緒も同じように理想像として成立しているキャラクターだと思いますが、その理想像が現代に生きる人々の理想と合致している点が、そのまま「はいからさんが通る」が名作となっている理由そのものであると感じました。時代の美感の象徴となりうる造形なのですね。

テレビシリーズを見ていた人には嬉しい、物語の最後まできちんと描かれた映画化作品

テレビシリーズを見ていた人には嬉しい、物語の最後まできちんと描かれた映画化作品(C)大和和紀・講談社/劇場版「はいからさんが通る」製作委員会

大和和紀さんの画業50周年記念作品として制作された『劇場版 はいからさんが通る』でしたが、さすがに少女漫画の大名作と言われるだけのシナリオだと心から思いました。

そして、40年近い時をこえて、ようやくアニメで「はいからさんが通る」がエンディングまできちんと表現されたのは、ずっと心に残っていたものがようやく晴れた気分で、すっきりしました。

「エースをねらえ!」や「キャンディ・キャンディ」「ハイティーン・ブギ」「のだめカンタービレ」などに並ぶ少女漫画の大傑作なだけあって、さすがの名作です!

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