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映画『バード・ボックス』のネタバレ感想・解説!見たら死ぬパニック映画、残された謎

映画「バード・ボックス」のあらすじ・内容

Netflix映画『バード・ボックス(BIRD BOX)』はスサンネ・ビア監督によるスリラー映画です。

人間がいかに目に頼っているかを恐怖とともに痛感させられる作品です。

今回はそんな『バード・ボックス』の個人的な感想やネタバレ解説を書いていきます!

目次

映画「バード・ボックス」を観て学んだ事・感じた事

・いわゆる「終末」系。好きな人はとことん好きになる
・出産を機に女性は変わる。サンドラ・ブロックが、母が強い!
・良くも悪くも雰囲気を楽しむ作品。色々ツッコみたくなる人には退屈…

映画「バード・ボックス」の作品情報

公開日2018年12月21日
監督スサンネ・ビア
脚本エリック・ハイセラー
出演者マロリー(サンドラ・ブロック)
トム(トレヴァンテ・ローズ)
シェリル(ジャッキー・ウィーヴァー)
ダグラス(ジョン・マルコヴィッチ)
ジェシカ(サラ・ポールソン)

映画「バード・ボックス」のあらすじ・内容

映画「バード・ボックス」のあらすじ・内容

現代のある日、東欧を発端にして、集団自殺や異常行動が蔓延します。

原因は“それ”の襲来。突如現れた“それ”を一目でも見た者は、突如自殺に走ってしまいます。

主人公が外出中、“それ”は合衆国にも上陸!命からがら逃げ込んだ家で、見ず知らずの他人たちとの避難生活が始まります。

映画「バード・ボックス」のネタバレ感想

大パニックとあがく人々

バードボックスの大パニックとあがく人々Bird Box

“それ”は序盤から街に現れます。正体不明の恐怖を前に、人々はとにかく死ぬ一方。あてもなく逃げ回っても、“それ”にあてられた人の自殺に巻き込まれて殺されるばかり。かなり派手に車を壊したり、建物を燃やしたりしているあたり、お金も気合も入ってます。このシーンで引き込まれる人も多いでしょう。パニック映画好きも満足できるクオリティだと思います。

その後まもなく、主人公はとある一軒家にかくまわれます。それなりに広いだけでこれといった特徴もない家の中に、互いに面識のない老若男女が複数人。カーテンを閉め切った薄暗い部屋の中で、いつ終わるともしれない避難生活が始まります。陽の光を浴びることも、外にでることも、監視カメラ越しに周囲を調べることもできません。引きこもるしかないんですね。なんとなく『デカメロン』っぽい雰囲気です。

けれど一般家屋で食料は生産できないため、どこか別の場所で調達する必要に駆られます。みんなで考えた結果、窓をすべて塗りつぶした車に乗ってナビだけを頼りにスーパーに行くのはユニークですね。死体やら放棄された車やら、実体をもった“それ”やらにぶつかりつつも、車は進みます。得体の知れないバケモノに身近なテクノロジーで対抗する様は、結構新鮮です。

 

さらにこのスーパーの一件から、なぜか外を見ても生きている狂人がいるという事実が判明します。

詳しげな人物によると、「心に闇を抱えた者」は“それ”を美しいとありがたがって、他の者にも見せるため働きかけるようになるとのこと。目隠しやカーテンで対抗しようとしていた主人公たちは、中盤からこの「心に闇を抱えた者」にも対抗せざると得ない状況に陥っていきます。どうやって生き延びるのでしょうか?

終始かっこいいサンドラ・ブロック

終始かっこいいサンドラ・ブロック

主演のサンドラ・ブロックは、孤独な画家というキャラクター。妊娠八、九か月でしょうか、とても大きなお腹をしています。ただ夫はおらず、子どもにもあまり関心がない様子。養子に出すことを考えるカットまでありますからね。

とはいえ、“それ”が現れてからしばらくは、生き伸びることしか考えられなくなります。不審な人物が現れたら真っ先に銃を向けたり、率先して食糧確保に乗り出したり。お腹の子供に響くから安静にするとか、そういう考えはまったく頭にない様子です。それがまたカッコイイんですね! 守られるだけの女じゃないぞ、という言外の力強さを感じさせます。こういう「強い女主人公」という要素は、映画では年々珍しくなくなってきてはいますが、輝きが消える様子はありませんね。社会的にもいい動きだと思います。

 

他方、本人がどう思っているかに構わず、周りは彼女を妊婦として気遣います。それぞれが祝福するような姿勢なんですね。序盤で“それ”が街を襲ったときに主人公を助けた人も、「妊婦だから」という理由をかなりアピールしていました。避難者たちもお腹を触ったり、スーパーへ行ったときに紙おむつを探してきたり。どことなく監督の願望めいたものを感じますが、さほど違和感はありません。平時はもちろん、非常時でも人々がこんな風に人を気遣えたら……と思わされるのは確かですしね。

そういったこともあってか、息子が生まれてからの主人公はかなり人が変わります。その振る舞いは「強い女」というより、完全に「強い母親」!子どもたちが生き延びるためには手段を選ばないと言わんばかりの物言いは、まるで鬼軍曹です。さすがに平和な世の中であんな母親がいたら嫌ですが、劇中の世界ならむしろ自然。過酷な環境を生きるために牙を剥ける様は、出産後の猛獣の母親を彷彿とさせます。少しでも対策を怠れば死に直結するとなれば、こうもなるでしょう。

以上のようなカッコよさは、男にも十分伝わるもの。それでもやはり、よりダイレクトに響くのは女性の方だと思います。銃や魔法で敵を倒すわけではないけれど、一般人にできる限りのことをする強い女性が観たい!というときには最適ではないでしょうか。

ちなみに、ジェシカ役のサラ・ポールソンとサンドラ・ブロックは「オーシャンズ8」でも共演していますね。

【解説】二つの時間軸で展開

二つの時間軸で展開

物語は“それ”が現れだした「五年前」と、「現在」とが並行して進行します。生きるための方策や他の人物のために右往左往する「五年前」に対し、「現在」はかなり“それ”へのノウハウが蓄積されています。おもに主人公が川下りをするシーンで構成されているのですが、「五年前」に比べるとパニックらしいパニックはありません。後半になるまで川下りをする理由もわからないこともあって、しばしのっぺりした印象を受けます。

クライマックスは「現在」の行く末を映すため、ある種の伏線を張りたかったのでしょう。主人公の、母親としての決断を示す上で、有効な手法の一つだったとは思います。ただ結果として、川下りの理由が判明するまでずっと、「現在」は退屈なだけとなってしまいました。なにか興味をそそられるような謎が増えるわけでもなく、これといったスリルがあるわけでもなく。なのに何度も挟み込む必要があったのかはかなり疑問です。

特に、始めから「五年前」「現在」と表記すべきだったのかはかなり怪しいところです。結果的に「五年前」に何が起きるかだいたい察しがついてしまいますからね。「現在」は主人公と子ども二人だけで自然の中に住んでいるということは、それ以外の大人は全員死んでしまうのかな……とか。いきなりネタバレをされたようで、ホラー・サスペンスとしての楽しみが削がれたように思えてしまいます。もしかすると、あまりホラーに慣れていない人向けにわざと衝撃を和らげたのかもしれません。

しかし、理由はどうあれ、ホラー要素が減ってやや陳腐化してしまったのは事実。筆者にはそれがちょっとがっかりでした。

 

余談ですが、この作品が二つの時間軸で苦戦しているのを踏まえると、三つの時間軸をキレイにまとめて魅せた映画『ダンケルク』はとてもスゴかったと改めて思わされますね。

情報の出し方も、困難と解決のバランスも、クライマックスへの運び方も実に見事でした。この機会にあわせてご覧になってはいかがでしょうか。

【ネタバレ解説】“それ”から逃げきれた人物は…!?

【ネタバレ】“それ”から逃げきれた人物は…!?

「五年前」ではオリンピアという女性の独断が原因で、“それ”に汚染された「心に闇を抱えた者」を家に招いてしまいます。結果、生き残ったのは主人公マロリーと、黒人男性のトム、そして生まれたばかりの赤ちゃん二人だけとなってしまいました。

それから五年後、四人はなんらかの手段で別の家に移り、細々と生きていました。二人の大人が徒歩圏内の家屋を漁って食料を確保し、子どもたちに与えるという構図は、なるほど鳥の巣(すなわちバード・ボックス)のようです。ただ、相変わらず“それ”は空にのさばり、「心に闇を抱えた者」たちも銃を持ってうろつきまわる環境です。限界は近いようでした。

 

そしてある日、四人は「心に闇を抱えた者」たちに襲撃されてしまいます。トムがおとりを買って出て、三人は逃亡。トムは「闇の者」を道連れにしながら死亡します。一方のマロリーは悲しみに暮れる間もなく、移り住むことを決意。行き先は、偶然無線をキャッチした人物の居場所。罠である可能性が捨てきれないものの、最後の望みをかけてボートに乗り込みます。

毛布と食料を流されたりはしたものの、30時間余りは比較的順調に進行。しかし目的地を前にして急流に差し掛かります。主人公か子ども、誰かが目視確認しなければ渡航不可能なのは明らかでした。子どもは二人とも「自分がやる」と言い出しますが、母には選べません。娘のほうは実はオリンピアの娘であるために血が繋がっていないのですが、それでも犠牲にはしませんでした。無謀にも、全員が目隠しをしたままで進むことを決めるのです。ボートは当然のように転覆しましたが、三人は奇跡的に川沿いへ到着。徒歩で目的地へ向かいます。

道中も三人がはぐれたり、“それ”が囁いたりしてきます。しかし親子の絆で乗り切ります。そして死ぬ思いで目的地に到着。そこは盲学校で、“それ”に汚染されなかった者たちが平和に暮らしていました。受難の末にたどり着く約束の地のような描き方なので、カトリックの方にはなにか違った見え方がするかもしれませんね。

設定・展開の甘さが気になってしまう

設定・展開の甘さが気になってしまう

言うまでもないことかもしれませんが、映画の尺は基本的に二時間しかありません。その中に詰め込める情報量には、かなり限りがあります。最低限のセリフ以外で何かを盛り込もうと思うなら、小道具や衣装など、美術面でアピールすることが求められます。余計な情報が多いと、ダレたりややこしくなったりしてしまいますからね。

その点で言うと、『バード・ボックス』は余計な情報が多すぎた気がしてなりません。たとえば主人公のキャラクター。彼女が孤独な画家であったことは先述の通りですが、その設定が活かされることはついぞありませんでした。“それ”が合衆国に上陸してから絵を描くこともなく、孤独さが何かに関連することもなかったのです。出産後は母としての言動が確立した一方、出産前を特徴づけるものも、これといってあらず。比較的奔放に生きていたのが、出産を機に変わったのはわかるのですが、もっとやりようがあったように思えます。

例えば、出産後との対比を明確にするため、序盤の言動をやんちゃにするとか。血のつながっていない娘を息子と等しく愛することに説得力を持たせるような、愛情深さを示すとか。いくつか案はありますが、いづれにせよ、まるで役に立たなかった画家という設定よりはマシになると考えます。

堅物なオヤジ・ダグラスもそうです。マロリーと会話するシーンでマロリーの父親とそっくりのダメ親父だと指摘されますが、それで終わり。以後、これといって二人が関わることもありませんでした。ダグラスのキャラクターは役者の物言いだけでも十分把握できていましたし、展開にメリハリをつけたいだけなら他にもっといいイベントが起こせたんじゃないでしょうか。

 

また、登場人物の内面は、安易だという印象をどうしても拭えません。頑固で独善的なダグラスもそうですし、オカルトマニアな黒人チャーリーもそうです。コメディライクというか、ベタというか……。どこかありがちな調子が、どうにも鼻につきます。

もっとひどいのはオリンピアですね。肥満体系で危機管理能力が低く、自分の娘にディズニープリンセスの名前をつけようとするような人物です。典型的すぎて、どうしてこんなキャラクターをスリラー映画の最新作に起用しようと思ったのか、ただ不思議なばかり。なにかと言い訳がましく、様々なことを他人のせいにしようとする性格が、役者の演技力と相まって不愉快に感じた人も少なくないのではないでしょうか?(もっとも、演じたダニエル・マクドナルドが素晴らしい表現力を持っていることの裏返しでもありますが。)

加えて言うなら、二人の子どもの性格・教育状態も疑問ですね。“それ”が現れる前の世界を知らない子どもたちが、あんな純真な子に育つのでしょうか?あれだけ母親が厳しく命令し続けていれば、もっと精神的に抑圧されそうな気がします。言いつけを無視して出歩いたりするとも思えません。また、それなりの語彙力があるのも不思議です。テレビもラジオもなければ両親以外の大人もおらず、同年代の子供と話すこともできないとなれば、言葉に触れる機会が少なすぎて発達が遅れそうなものですが……。当然ケーススタディなどないため確信は持てませんが、どうも腑に落ちません。

以上のようなポイントがいったん気になりだすと、最後まで足を引っ張ってくるのが惜しいですね。気にならない人はまったく気にならないだろうとは思いますが、筆者には無視できませんでした。

ツッコんだら負け?残ったままの謎たち

説明が不十分であるために、まったく理解できなかった部分もありました。例えば、“それ”そのものについて。“それ”はなぜ生まれ、何を目的としていて、どれほどの数がいて、いつまで生きているのか。結局何一つわかりませんでした。「わからないから怖い」というタイプのホラー表現があるのも確かですが、それにしては自己主張がわかりやすいんですよね。飛行する影があったり、わざとらしい風が吹いていたり。物語として絶対必要だったとまでは言いませんが、気になります。

五年の間にどうやって引っ越しをしたのかも不思議です。五年前は道路に面した街の外れの家にいたはずが、いつの間にか森の中にいましたからね。車もない状態で目隠しして歩き回っていたら、たどり着いたのでしょうか。それとも人間が手入れをやめたら、わずか五年で森が出来たりするのでしょうか?

食料だってどうやって確保したのでしょう。車がないということは、スーパーマーケットにも行けないということです。仮にコンビニくらいには行けたとしても、五年も凌げるとは思えません。電気・ガス・水道のインフラもない中で食べられるものなんて、たかが知れてます。目が見えない状態で狩りやら農業やらも、非現実的です。修行すれば釣りくらいはできますかね?

 

なによりの謎は、ラストに登場した盲学校です。どうしてあんな、急流の川沿いの森の中なんぞにあったんでしょう?バリアフリーが聞いてあきれる立地です。五年の歳月によって、点字ブロックの上に森が育ったのでしょうか。一番現実的なのは、“それ”が出てきてから既存の建物を盲学校に改名したというパターンですが、これはこれで意味不明です。盲学校とは。

もちろん食糧問題もあります。盲学校内部には、ぱっと出てきただけでも数十人の人がいました。これが十人未満であれば、木の実やらウサギ獲りやら川釣りやらで細々と生きていけたでしょう。でもどう見たって二十人は超えているんです。居住者の大半は盲目だという説明もあっただけに、より一層納得できません。どうやって調達していたんでしょう。唯一残った方法といえば、もう“それ”を狩って食べることしか思いつかないんですけどどうでしょうか。目が見えない状態で『進撃の巨人』ごっこというのは、だいぶ無理がありそうですけど。サバイバルは本作のメインテーマではありませんが、それをないがしろにしてするのはいただけませんね。中盤命がけでスーパーに行った意味なども否定することになりますから……。

そもそも盲学校が安全であるという保障もないですよね。心に闇を抱えた者たちは車で人を探し回っていたようですから、いつ見つかるかもわかりません。そうなれば彼らはそろいもそろって銃で武装していますから、ひとたまりもないでしょう。なんともご都合主義なラストになってしまったことには、あまり評価できません。

【考察】視界を奪われるということを、もっと意識したかった

【考察】視界を奪われるということを、もっと意識したかった

映画『アイ・アム・レジェンド』や漫画『アイアムアヒーロー』の連載開始は、いわゆるゼロ年代のこと。『バード・ボックス』はそれから五年、下手すれば十年が経った今になって世に出ただけに、「世界中の人が死ぬパニックもの」というだけでは目新しさもありません。

本作はそこに「見たらいけない!」という要素を加えたからこそ、「目視」について徹底的にこだわって欲しかったと思えてなりません。脚本・演出ともにそこのこだわりが薄かったのは、とても大きなマイナスだったと言わざるを得ないのが正直な感想です。映画でこれをやる意義が見出せませんからね。

逆に言えば着眼点自体は面白かったので、もっと作りこんだものには触れてみたいなと思いました。本作を題材にしたホラーハウスとか、素直に行ってみたくなります。あるいは、センサーの内蔵された目隠しとセット販売のホラーゲームとかでしょうか?プレイ中、特定の場面で目隠しを付けていなければ死んでしまうけれども、付けっぱなしでは先に進めず、適宜外す必要があるみたいなシステムで。

 

とはいえ、「ブラックボックス展」なんてものはすでに行われています。これは2017年5月に東京で開催されたイベントギャラリーで、開催時は長蛇の列ができるなど大きな話題となりました。ネットの不完全性や誤びゅう性をアーティスティックに表現したもので、展覧物も斬新でした。なんと、部屋の中には明かりもない完全な闇。音が聞こえるくらいの中で、自己の存在について認識を改めてもらうというのが一つのコンセプトでもあったとのこと(闇の中が治外法権化しており、痴漢が横行していたなんて話もありましたが、結局裁判沙汰にはならなかったんでしょうか)。つまり、人から視覚を奪うという表現自体も、それだけでは前衛的とは言えません。

それでも、「見てはいけない」という禁則と「パンデミック系映画」というメディアの組み合わせに、前例はないはずです。だからといって前例がないことにあぐらをかいて良いことにはなりません。さらに煮詰めていけば、『バード・ボックス』はもっといい映画になっていたと感じました。

 

一応「母の強さ」というものがサブテーマに入っていましたが、これも練りこみが甘かったと思います。「パンデミック系映画」という舞台に上げることはできていたものの、「母の強さ」と「見てはいけない」の親和はまったくと言っていいほど無かったのが事実です。やはりここはもっと調和させ、あらゆる要素を織り交ぜて欲しかったですね。

なんだかまるで弁当によく入っているスパゲッティがごとく、当然のように映画に入り込んでいましたが、よく考えると浮いた存在のままでした。私たちはべつに、粗末なスパゲッティを食べたくて弁当を買うわけでも、映画を観るわけでもありません。どうせ入れるならカツ丼弁当の玉ねぎくらい溶け込ませ、必要な存在として欲しかったです。なぜか入り込んでいるスパゲッティに対して「やった!おかずの種類が多い!」と喜べるのは、お子様ランチだけですからね。(弁当のスパゲッティが好きでたまらないという読者の方、ゴメンナサイ。)

 

ところで、どうして煮詰めることができなかったんでしょうか?監督や脚本、あるいはプロデューサーの力が足りていなかった可能性も否定はできませんが、データから推測するに別の理由がありそうです。

というのは『バード・ボックス』の製作費がポイントです。19,800,000ドルという金額は邦画に比べれば高額ですが、洋画の中では低予算の部類。有名女優であるサンドラ・ブロックを起用し、序盤のパニックシーンを撮影すると、大半が吹き飛んでしまうのが想像できます。そのしわ寄せがスケジュールに及んで脚本を推敲する余裕がなくなり、クライマックスの演出も安上がりにする必要に駆られた……という推理が成り立ちます。Netflixの裏事情が見え隠れしますね。

テレビCMでもバード・ボックスの映像が流れているので、気になった方はNetflixで視聴してみてください。

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